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大相撲・八百長疑惑問題については、何度か触れています。

<1>「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)

<2>「大相撲八百長疑惑問題:相撲はスポーツか興行か? 八百長は日本の文化なのか?(東京新聞平成23年2月5日付「こちら特報部」より)」(2011/02/06 17:07)

<3>「大相撲・八百長疑惑問題:海外新聞の評価~八百長疑惑は騒ぎすぎでは?」(2011/02/11 22:28)



日本の全国紙、特に、朝日新聞と毎日新聞だけは、いまだに興奮して八百長疑惑を非難し続けています。大相撲・八百長疑惑問題については、全国紙(朝日、毎日、読売)の基調は、「徹底的な八百長根絶を行うべき」というものばかりです。


1.3つほど引用しておきます。

(1) 朝日新聞平成23年2月10日付朝刊16面「記者有論」

大相撲と八百長 スポーツなら全力士の調査を――編集委員・西村欣也(にしむら・きんや)

 それならば、どうぞ、八百長をしてください、と思う。大相撲の話だ。メールでの八百長疑惑が発覚してから、様々な意見がファンや識者の間で飛び交っている。その中に「大相撲は日本の伝統文化でファンは八百長があることを薄々知っていて、それも承知の上で楽しんでいる」という言説がある。ならば、どうぞ、だ。

 大相撲は三層構造になっている難しい存在だ。古来の神事であり、興行であり、現代スポーツという三面を持っている。これをどういう順序でピラミッド構造にしていくか。興行を屋台骨にし、その上に神事、スポーツが載っているのならば、今回の問題も論じるに値しない。相撲は、元々興行なのだから。新公益法人移行など、目指すべくもない。

 しかし、私は大相撲の屋台骨はスポーツであると思っている。その上に興行と神事が積み重なった国技だという認識に立ってきた。

 ここを、まず、議論する必要があるだろう。神事を兼ねた興行なのだとすれば、大相撲は八百長の解明など無駄な努力をせず、伝統芸能として生きていけばよい。

 仮にスポーツであることを屋台骨にするなら、今回の八百長問題は大相撲の根幹を揺るがす大問題だ。八百長の疑念が少しでも入ってしまえば、それはスポーツとして認められない。(中略)

 大相撲という伝統的な国民の財産をつぶすのか、という声も聞こえる。しかし、大相撲が再生し、発展していくためにはスポーツという根幹が必要なはずだ。それがなければ、大相撲は古来行われてきた日本独自の筋書きのある興行で神事と位置づけるしかない。

 時間がかかっても全力士の全容解明を進める。プロセスをファンは厳しく見つめ続ける。そのことでしかスポーツとしての大相撲再生はできないと考える。」


西村欣也・朝日新聞編集委員は、「八百長解明ができなければ、大相撲という伝統的な国民の財産をつぶしてもよい」と言わんばかりのことまで述べています。「大相撲はスポーツなのだから、八百長は絶対にいけない」という執念があるようですが、なぜ、そこまで八百長疑惑解明に固執するのでしょうか。固執するだけの根拠は「大相撲の根幹を揺るがす大問題」と述べるだけで、なぜ、大問題なのかの理由も、何も示していないのです。単なる感情論による論説であって、とても正気の沙汰とは思えません。

西村・編集委員は、最初の論説では、根拠なく「大相撲は、興行ではなくスポーツだ」と断言していました。ところが、今回は一転して、「(実は)大相撲は三層構造になっている難しい存在だ。古来の神事であり、興行であり、現代スポーツという三面を持っている」などと述べているのです。あれほど、スポーツだと断言していたのに、謝罪をすることなく、「実は三層構造だった」などと自説の間違いの訂正を図るのですから、ずいぶんといい加減な人物です。

だいたい、「三層構造だ」なんて、一体、いつから誰が言っているのでしょうか? 急に「三層構造」などと言ったところで単なる感情論にすぎません「私は大相撲の屋台骨はスポーツであると思っている」とも言っていますが、その理由さえも何も示していないのです。

「三層構造」「屋台骨はスポーツ」などに限らず、西村・編集委員の文章は、何の理由も示していないまま独自の論理を展開しているのですから、これでは単なる個人の感想文・感情論であって何の説得力もありません。おそらく西村・編集委員は、論理的に物事を考えたり、深く物事を考える癖がないのでしょう。だから、こうした感情論だけの文章になってしまうのです。

「(興行ならば)それならば、どうぞ、八百長をしてください、と思う」という文章は、まさに、ふてくされた感情そのものです。常識ある人物であれば、スポーツだろうと興行だろうと、ルールがある以上、八百長ばかりではいけないことは誰にでもわかるはずなのです。西村・編集委員は、無能なのでしょう。


(2) asahi.com:2011年2月20日18時30分

八百長調査 私なら…「告訴を」「内部告発促す方策を」
2011年2月20日18時30分

 「ウミを出し切る」と日本相撲協会の放駒理事長が言い切った八百長問題。だが弁護士ら外部識者を集めた特別調査委員会によっても新事実はなかなか見えず、真相解明は遠い印象だ。「徹底調査」をいうのなら、ほかの手段も考えた方がよくないか。

 「相撲協会は『偽計業務妨害』容疑で警視庁に告訴し、捜査に委ねた方がいい」。元東京地検特捜部副部長の若狭勝弁護士はこう提案する。

 八百長問題は力士らの野球賭博事件を警視庁が捜査する中で発覚した。しかし「合法的な賭け事」の対象ではない相撲は、八百長を取り締まる法律がない。警視庁が立件できないのはこのためだ。

 だが「八百長という不正行為で相撲協会の業務が妨害された」ととらえれば、被害を受けた協会から警察に捜査を求めることができる――これが若狭氏の指摘だ。(以下、省略)」


「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)でも触れたことですが、朝日新聞も、八百長については、警察としては業務妨害罪の立件は困難だと判断して、マスコミにリークしたことは知っているはずです。

ところが、元検事の若狭氏に「相撲協会は『偽計業務妨害』容疑で警視庁に告訴し、捜査に委ねた方がいい」などと言わせ、それを記事にするのです。いくら警視庁に告訴しようとも、八百長について捜査をするわけがないと分かっているのに、わざとこうした記事を掲載するのです。これは、読者に誤解を与えるものであって、妥当性を欠く記事です。

八百長は犯罪ではないのですから、捜査機関の性質上、捜査機関がこの問題で捜査を行うこと自体、許されない行為です。報道機関は権力の監視の役目があるからこそ、報道の自由が保障されているのですから、捜査機関による捜査を奨励するような記事は、報道機関としての役割を放棄するものです。


(3) 毎日新聞 2011年2月20日 東京朝刊

社説:相撲界組織改革 八百長根絶が前提だ

 大相撲が野球賭博事件で大揺れしていた昨年7月、日本相撲協会の改革を目指して設置された「ガバナンス(組織の統治)の整備に関する独立委員会」(奥島孝康座長)が17日、協会改革案を答申した。

 A4判で50ページ近くに及ぶ答申書につけられたタイトルは「日本相撲協会の公益法人化へ向けての改善策」。2年後の11月に申請期限が迫った新しい公益法人制度への移行をにらみ、認可に不可欠な組織改革を盛り込んだ。(中略)

 八百長相撲は大相撲の根幹を揺るがす不正行為だ。八百長相撲に対する厳罰規定を作り、その徹底的な排除と具体的な再発防止策を協会が示さない限り、相撲協会の「公益法人化」は絵空事に終わる。(中略)

 一握りの力士出身者が協会を切り盛りし、外部の声を遮断している間に八百長相撲が巣くってしまった。大相撲も時代の要請に応える組織に変わらなければ生き残ることはできない。それこそが全国の相撲ファンの期待に応える唯一の道だ。

毎日新聞 2011年2月20日 東京朝刊」


「八百長相撲は大相撲の根幹を揺るがす不正行為だ」としていますが、その根拠は何なのでしょう。どんな事柄にも不正行為はつきものです。ですから、不正行為があるからといって、「根幹を揺るがす」ことにはならないのです。

「八百長相撲に対する厳罰規定を作り、その徹底的な排除と具体的な再発防止策を協会が示さない限り、」は「相撲協会の『公益法人化』は絵空事に終わる」としています。しかし、その論理からすれば、「公益法人」にならないのであれば、八百長相撲は許されるということになってしまいます。ですが、それで本当にいいのでしょうか? 毎日新聞は、もう少し論理的に考えるべきでした。

確かに、公益法人という点がなければ、マスコミが相撲協会に対して文句をつける根拠を失ってしまいます。だから、公益法人化の問題と八百長問題を結び付けているのでしょう。しかし、公益法人化は法律上の要件を備えているかの問題(法律論)ですが、八百長問題は大相撲のルールに関わる問題(非法律論)ですから、公益法人化と八百長問題は別問題なのです。ですから、毎日新聞の社説は単なる言いがかりにすぎないのです。

「一握りの力士出身者が協会を切り盛りし、外部の声を遮断している間に八百長相撲が巣くってしまった」といいます。しかし、古来から、大相撲では八百長がありました。ですから、「一握りの力士出身者が協会を切り盛り」しているか否かを問わず、「外部の声を遮断している」かどうかを問わず、八百長はあったのです。これも、根拠のない単なる言いがかりにすぎないのです。



2.全国紙、特に、朝日新聞や毎日新聞の記者の記事を読んでいると、その感情論を煽るだけのものばかりなので、読んでいてこちらの頭がおかしくなってしまいます。そこで、真っ当な論説を2つ紹介しておきます。


(1) 毎日新聞平成23年2月19日付(土)朝刊「野坂昭如の『七転び八起き』」

連載98回・八百長問題  場所を休んではいけない

 政治は党利党略に明け暮れ、世間の関心は薄れる一方。それは当然の成り行きとしても、現在目の離せない国際情勢、例えばエジプトは30年の独裁政権が終わり、変わろうとしている。しばらく混乱は続くだろう。

 日本に対する影響はどうか。あるいは列島の住人を苦しめる大雪、噴火の自然災害の経過よりも、なお、世間の関心事として話題になっているのは大相撲八百長問題であろう。日本は平和だというより他ないのか、考えてしまう。

     *

 元来相撲は芸能である。日本に伝わる他の芸能と同様に古来五穀豊穣(ほうじょう)を願い、神に捧(ささ)げる儀式に始まる。四股は、大地が揺らがぬよう力士の頑丈な足で固めんとする所作。せり上がりは大地から命の萌(も)え出す姿。力士は土俵に足踏み入れる前、口を濯(すす)ぎ柏手(かしわで)を打って塩を撒(ま)く。神の宿る場所に穢(けが)れ多き身を運ぶ前の所作。常に浄(きよめ)を心がけるのだ。つまり相撲は日本列島固有の神事に属する。

 かつて、五穀豊穣こそ万人の願い。太陽と水の恵みを有り難いとする気持ちとともにあった。次第にその気持ちは薄れ、この薄れとともに相撲が神事から離れていったのはごく自然なことなのだろう。角界は角界で伝統の上にあぐらをかき続けてきた。

 ぼくの知る相撲と今のそれはまるで違う。子供の頃は神戸で育った。場所を観(み)られるのは地方巡業だけ。普段はもっぱらラジオである。アナウンサーの声、客席の歓声、どよめきに手に汗を握りながら聴いていた。

 記憶に残るのは、初場所後寒い時期に、神戸三ノ宮駅前で開かれた場所である。戦争の色濃くなりはじめた頃だった。義父につれられて行ったのだが、ムシロで囲まれた観客席は、子供心に粗末に見えた。

 もちろん暖をとる設備もない。寒い中、身をこごめて待っていると、土俵に力士が上がった。見ればまわし姿の力士の体全体から湯気が立っている。実に勇ましい。自分とはかけ離れた存在、大きく立派な体つき、立ち昇る湯気、ぼくは、ただただ見惚(みほ)れていた。取り組みは迫力そのもの。しかし佇(たたず)まいにはおっとりのんびりとした雰囲気があった。

 相撲の職業化が進むにつれ、醜名(しこな)も変わった。山や川、土地の名前があたり前だった昔にくらべ、突拍子もない類(たぐい)が増えた。外国人力士が登場、これに対し今も賛否あるが、角界の現状をみればこの存在抜きに語れない。日本の子供たちが取っ組み合いさえしなくなった現在、ぼくらの側に日本人横綱の不在を嘆く資格はない。子供たちから原っぱを取り上げ、喧嘩(けんか)ひとつさせない。そういう世の中にした大人がいる。

 相撲が勝負を争うようになって、興行化した。五穀豊穣の気持ちが日常から薄れ、相撲を神事から遠ざけたのは我々である。勝ち負けを争うのは格闘技として当然。1年6場所、そこへ巡業が入る。365日稽古(けいこ)ずくめ。このすべてを本気で取り組めば体が壊れてしまうだろうことは想像がつく。力士には自分の体と土俵を守るための心づかいがあって当然。それをインチキとはいわない。

 しかし八百長めいたことは昔からいわれる。同時に観る側にそれを楽しむゆとりもあった。八百長以上に力士の佇まいに敬意を表していたのだ。日本には文化、芸能を楽しみ育てる成熟した土壌があったはず。風情を味わう気持ちを誰もが持ち合わせていた。

 この度のお粗末な八百長は、やる方も攻撃する側にも子供っぽさが目立つ。相撲協会、親方、力士はいわずもがな。こっちはもともと成熟していなかった。成熟していたはずの世間はいつの頃からか、穏やかで和を尊ぶ気風が薄れ、ある日突然、ヒステリックに一つの事について激しく糾弾する気運が目立つようになったと思う。

 マスコミというものは世間を騒がせる事件なり事故が起きた場合、すぐさま正義の味方、警世家を気取るもの。つれて、各方面の諸賢人、評論家がご登場。名論卓説の雨あられ。御託を述べる。次第に世間様も「そうだ、そうだ」と同意。ぼくにしても悪者を作って自分を棚に上げる癖がついている。その上、日々平穏無事を願う。しかしそれが人間の常だろう。

     *

 それにしても、成熟したはずの日本人の良さはどうなってしまったのか。神事、国技、伝統、興行、スポーツ。ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら相撲と上手につき合ってきたのだ。日本人はいい意味であいまいさを大事にしてきた。

 島国であるということは、海に囲まれ外に逃げられない。農業、漁業の営みは個人も大事だが、村ごとにまとまって生きなければ成り立たない。何事も決めつけず、大らかに構えて、おっとりと世の中を眺める仕組みをうまく利用してきた。そこで、ゆとりや風情を楽しむ気風が生まれた。

 ぼくはこれまで、相撲にずいぶん楽しませてもらった。双葉山にはじまって、いい時代のいい相撲とつき合えた。場所を休んではいけない。続けるべきだと思っている。

 この際、徹底的に膿(うみ)を出せ、相撲界累年の悪弊を根こそぎ浄化せよとの声が広がる。果ては相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたしと、それで世間の気持ちはすっきり収まるのだろうか。いったん国技も伝統も打ち棄(す)てて、それこそ裸一貫昔ながらのおっとり相撲が蘇(よみがえ)るのなら結構だが、それには相撲界にも世間にも成熟さが求められる。 (企画・構成/信原彰夫)」




(2) 東京新聞平成23年2月22日付夕刊5面

八百長は他人ごとか? 至る所 ムラ社会の名残――星野智幸

 大相撲の八百長が発覚したとき、かつて熱烈な相撲ファンだった私も含め、おおかたの反応は「やっぱり」であった。「まさか!」という青天の霹靂(へきれき)のような驚きは、あまりなかったように思う。それを裏づけるように、共同通信が行った世論調査では、じつに76%の人が「八百長はあると思っていた」と答えている。

 私が相撲ファンになったのはもう30年以上前のことである。高校生のときにはすでに、プロレスファンの友だちと、相撲とプロレスのどちらがより八百長度が高いか、議論をした記憶があるので、相撲には八百長がつきものだとそのころから普通に言われていたのだろう。ちなみに、貴乃花の引退とともに、私は相撲ファンを辞めた。

 なぜこんなに長きにわたって、八百長はあるとみんなに思われながら、曖昧なまま八百長が続いてきたのだろうか。そのような不正が、そのにおいははっきりと感じるのにずっと放置されるということが、はたして他のプロの競技で起こりうるだろうか?

 相撲界の体質がその根本の要因であることは当然なのだが、私はそれだけではないと思っている。

 面白いことに、八百長発覚の直後、相撲が八百長ならこれも八百長だ、とさまざまな業界で指摘が相次ぐのをちらりと目にした。あるブログでは、通信周波数帯をめぐる総務省と通信業者のやりとりが八百長みたいなものだ、とたとえているのを読んだ。東京新聞の特報面には、「八百長は日本の文化?」という記事が現れた。

 同感である。八百長はじつは日本社会のいたる所に蔓延(まんえん)していると思う。この場合の「八百長」とは、例えば金の掛かった競技で心付けをもらってわざと負ける、といったケースは当てはまらない。そのような、外側の利益のために便宜を供与する取引ではなく、内側の利益のために内輪で便宜をはかりあう場合を指す。ひと言でいえば、「談合」である。

 まさに、公共事業の入札をめぐる「談合」は、日本の文化とも言えるほど、各地で普通に見られた。「天下り」などをはじめとする、官僚の人事も同じである。検察の調書や証拠偽造も、「八百長」と言って差し支えあるまい。タテマエでは公正な競争や評価によって行われているはずのことが、内輪のホンネでは、誰もが手を染めている不正の産物となっているのだ。

 相撲界を見てわかるとおり、そんなことをしても組織の利益になるどころか、むしろ命取りになる行為なのに、どこでも行われ延々と続くのはなぜなのか。それは、もはや組織の現状維持が至上命令になっているからだ。その道を取れば滅びるとわかっていても、築きあげられた慣習と今現在の自分たちの利益を守ることが優先され、そのために内輪で協力しあう。だから、内輪では分け合うけれど、新参者は締め出す傾向が強い。

 これはいわゆるムラ社会の論理である。日本社会は、そのような小さなムラ社会がたくさん集まって構成されていた。だが、バブル期以降、ムラ社会は次々と崩壊している。ムラ社会のボスだった自民党の政治が崩れ落ちたのは、その象徴だろう。

 以降、もはや談合的な不正は許されなくなった。政権交代で期待されたのも、そのような古くから惰性で続いている無意味で益のない不透明な馴(な)れあいを排して、新しい公正さを打ち立てることだっただろう。ひいてはそれが、ムラ社会を近代市民社会へ再編することにつながるはずだったろう。

 そのような変化を察知できず、自ら手を打つことができなかった相撲界は、自壊しつつある。だが、それでも何十年にもわたって八百長疑惑が曖昧であり続けられたのは、日本社会自体が八百長体質を持っていたからではないのか。そして、民主党政権が透明な公正さの体制を実現できずにいるのも、当の民主党を含め、この社会にはまだまだ八百長体質が残っているからではないのだろうか。
 
 (ほしの・ともゆき=作家)」




3.(1) 大相撲では昔から八百長はありました。ですが、八百長は大相撲に限らず、日本社会自体が八百長をしてきた体質があったのです。
 

 「八百長はじつは日本社会のいたる所に蔓延(まんえん)していると思う。この場合の「八百長」とは、例えば金の掛かった競技で心付けをもらってわざと負ける、といったケースは当てはまらない。そのような、外側の利益のために便宜を供与する取引ではなく、内側の利益のために内輪で便宜をはかりあう場合を指す。ひと言でいえば、「談合」である。(中略)
 何十年にもわたって八百長疑惑が曖昧であり続けられたのは、日本社会自体が八百長体質を持っていたからではないのか。そして、民主党政権が透明な公正さの体制を実現できずにいるのも、当の民主党を含め、この社会にはまだまだ八百長体質が残っているからではないのだろうか。」(東京新聞平成23年2月22日付夕刊5面)

 
 

 「日本には昔から、こうした出来レース的な文化が潜んでいる。裏口入学、入札談合、縁故採用、強いて言えば就職試験の際の指定校制度なども、八百長と言えるだろう。公正な競争とは言えないからだ。こうしたことが厳然と存在しながら、見過ごされているのが日本の社会である。なんでいまさら大相撲の八百長程度で騒がれなくてはいけないのか。」(サンパウロ新聞)


マスコミだって、八百長と無関係ではありません。いくら無実であろうとも、そして、捜査官しか知らない情報であってもなぜか報道され、また、否認しているのに、なぜか、自白したような報道が流されたりするのです。被疑者や弁護人にとっては、こうした虚偽報道による世論の処罰感情を煽る行為は、絶対に許しがたいのです。

捜査機関による捜査情報のリークがあり、それを記事にしていることは、刑事弁護を知る者であれば、誰もが実体験として知っていることです。全国紙(朝日、毎日、読売)は否定していますが、そんな戯言を信じる者は、よほどの馬鹿だけです。これも、捜査機関とマスコミが一体となった「八百長」というしかありません。


(2) こうした八百長体質の日本社会を許容してきたことも関係あるのでしょうが、「成熟していた世間」があったからこそ、大相撲での八百長を許してきたのです。
 

 「この度のお粗末な八百長は、やる方も攻撃する側にも子供っぽさが目立つ。相撲協会、親方、力士はいわずもがな。こっちはもともと成熟していなかった。成熟していたはずの世間はいつの頃からか、穏やかで和を尊ぶ気風が薄れ、ある日突然、ヒステリックに一つの事について激しく糾弾する気運が目立つようになったと思う。
 マスコミというものは世間を騒がせる事件なり事故が起きた場合、すぐさま正義の味方、警世家を気取るもの。つれて、各方面の諸賢人、評論家がご登場。名論卓説の雨あられ。御託を述べる。次第に世間様も「そうだ、そうだ」と同意。ぼくにしても悪者を作って自分を棚に上げる癖がついている。その上、日々平穏無事を願う。しかしそれが人間の常だろう。
     *
 それにしても、成熟したはずの日本人の良さはどうなってしまったのか。神事、国技、伝統、興行、スポーツ。ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら相撲と上手につき合ってきたのだ。日本人はいい意味であいまいさを大事にしてきた。
 島国であるということは、海に囲まれ外に逃げられない。農業、漁業の営みは個人も大事だが、村ごとにまとまって生きなければ成り立たない。何事も決めつけず、大らかに構えて、おっとりと世の中を眺める仕組みをうまく利用してきた。そこで、ゆとりや風情を楽しむ気風が生まれた。
 ぼくはこれまで、相撲にずいぶん楽しませてもらった。双葉山にはじまって、いい時代のいい相撲とつき合えた。場所を休んではいけない。続けるべきだと思っている。
 この際、徹底的に膿(うみ)を出せ、相撲界累年の悪弊を根こそぎ浄化せよとの声が広がる果ては相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたしと、それで世間の気持ちはすっきり収まるのだろうか。いったん国技も伝統も打ち棄(す)てて、それこそ裸一貫昔ながらのおっとり相撲が蘇(よみがえ)るのなら結構だが、それには相撲界にも世間にも成熟さが求められる。」(毎日新聞平成23年2月19日付朝刊「野坂昭如の『七転び八起き』」)


八百長が犯罪であれば、問題視することにも十分な理由があるでしょう。しかし、大相撲では八百長は昔からあることであって、八百長は犯罪ではないのです。それをなぜか、ある日突然、ヒステリックに(八百長問題を)激しく糾弾し始め、言いがかりのような屁理屈を連ねるのです。まったく不思議でなりません。


(3) 最後に。

 「「本場所無期限中止」に娘、涙――60代・福島県須賀川市

 34歳のダウン症の娘は小さい頃から大相撲が大好きです。
 小学生の頃、力士の「しこ名」に興味を持ってから漢字にも関心を持ち、難しい「しこ名」を書いたり、出身地、生年月日なども覚えてびっくりさせられたものでした。相撲の巡業や催し物があれば一緒に必ず見に行ったり、両国国技館にも行きました。
 最近は体力の衰えが出てきたせいか、出掛けたりはできませんが、鉛筆を片手に、新聞に勝ち負けを書き込みながら、テレビ中継を楽しんでします。
 しかし、今回の「本場所無期限中止」のニュースに、多くの言葉を語れない娘は「お相撲」と書いてポロポロ涙を流して泣いています。(以下、省略)」(毎日新聞平成23年2月22日付朝刊15面「みんなの広場」)


 「大相撲八百長問題でコロニアにも衝撃
11/02/09 (10:12)

「春場所中止は厳しすぎる」 残念な結果に落胆・不満の声

 日本の報道によると、大相撲の八百長問題で日本相撲協会が6日に開いた臨時理事会で、3月13日から大阪府立体育会館で予定されていた春場所の中止を正式に決定したという。このニュースは、日系社会にも大きなショックを与え、特にNHK国際放送での相撲観戦を楽しみにしているファンからは「八百長はいけないことだが、ちょっと、厳しすぎるのでは」と不満の声も上がっている。」(サンパウロ新聞)


何度も書きますが、大相撲では八百長は犯罪ではなく、八百長が蔓延しているとの確たる証拠はないのです。それなのに、マスコミは、相撲協会に対して本場所中止を強要し、本場所開催についてのめどが立っていません。

そうした無責任なマスコミの対応により、大相撲により生計を営んでいる多くの市民、大相撲を楽しみにしている国内外の多くの市民に害を与えたのです。マスコミは、「『お相撲』と書いてポロポロ涙を流して泣いて」いる女性に対して、どのように責任をとるのでしょうか。本場所中止に落胆している海外の相撲ファンに対して、どのように責任をとるのでしょうか。マスコミは、こうした市民に対して、どのように(金銭的な)責任を取るのでしょうか

無実を叫ぶ者であろうとも有罪視した報道を行い、後に無罪となっても、言い訳をするばかりの全国紙は、今回も、相撲協会の責任であると責任転嫁を行い、ただ、「八百長はいけない、徹底解明を」と感情的に叫ぶだけなのです。

私たち市民は、大相撲とは何かについて正しい認識を行い、相撲協会への批判よりも、多くの害を撒き散らしている全国紙への批判を行うべきなのです。そうでないと、「相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたし」ということになりかねないのですから。


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【2011/02/23 01:29】 | 諸法
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rice_shower
http://www.videonews.com/interviews/001999/001673.php
こういう視座の提供こそが、ジャーナリズムの役割なのですがね。



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大相撲・八百長疑惑問題については、何度か触れています。

<1>「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)

<2>「大相撲八百長疑惑問題:相撲はスポーツか興行か? 八百長は日本の文化なのか?(東京新聞平成23年2月5日付「こちら特報部」より)」(2011/02/06 17:07)


日本の全国紙(朝日、読売、毎日)は、やたらと興奮して八百長疑惑を非難し続けています。特に、西村欣也・朝日新聞編集委員は、常軌を逸しているかのような興奮ぶりで非難しています。こうした異常な興奮ぶりに対して、海外の日系人社会は、どう感じているのでしょうか。そこで、ブラジルのサンパウロ新聞を紹介したいと思います。


1.報道記事を幾つか。

(1) サンパウロ新聞2011年2月8日付「灯台」

東京便り 大相撲八百長は騒ぎすぎ
11/02/08 (9:02)

 大相撲の八百長問題が大きな話題になっている。愛知県のトリプル選挙(知事、名古屋市長、市議会の解散を問う住民投票)が、日本の政治の流れを大きく変える自民、民主の政党政治を否定する結果になったのに、大相撲の問題がそれよりも大きく報道されている。日本のマスコミはどこか異常ではないか、と思ってしまう。

 というのは、大相撲の八百長問題って、そんなに大騒ぎすることかと思うからだ。大相撲は日本の国技であるが、所詮はプロスポーツの興業である。勝負が命のアマチュアのスポーツとは違う。観客を楽しませていくらの興業であり、しかもその八百長で観客、それ以外の人に被害を与えているわけではない。八百長レースだと多くの人に被害を与える競馬、競輪、競艇とは根本的に違うのだ。

 許されることではないが、日本には昔から、こうした出来レース的な文化が潜んでいる。裏口入学、入札談合、縁故採用、強いて言えば就職試験の際の指定校制度なども、八百長と言えるだろう。公正な競争とは言えないからだ。こうしたことが厳然と存在しながら、見過ごされているのが日本の社会である。なんでいまさら大相撲の八百長程度で騒がれなくてはいけないのか。

 これまでも多くの相撲ファンは、出来試合があるかも知れないと思いながらも興業として楽しんできた。本割りと呼ばれる本場所以外の地方巡業では、それが出来試合と分かっていながら取り組みを楽しんできた。
 その昔から、出来試合を内包しながら興業してきた大相撲(1980年、週刊ポストが八百長疑惑を告発している)であり、いまさら本場所まで中止し、大騒ぎすることではあるまい。

 それよりもむしろ、相撲ファンの楽しみを奪う興業中止こそが問題ではあるまいか。前頭、十両から陥落を防ぐための星の貸し借りなど、ほほえましいものではないか…。
 もしそれもだめというのなら、時代に合わせ全力士を給料制(今は十両以上しか給料をもらえない、そのため陥落すまいと力士は星買いに走る)にするなどの改革が必要だろう。改革をしない限り、出来取組はなくならないはずだ。(東京支社=瀬頭明男)

2011年2月8日付」



(2) サンパウロ新聞2011年2月9日付「日系社会」

大相撲八百長問題でコロニアにも衝撃
11/02/09 (10:12)

「春場所中止は厳しすぎる」 残念な結果に落胆・不満の声

 日本の報道によると、大相撲の八百長問題で日本相撲協会が6日に開いた臨時理事会で、3月13日から大阪府立体育会館で予定されていた春場所の中止を正式に決定したという。このニュースは、日系社会にも大きなショックを与え、特にNHK国際放送での相撲観戦を楽しみにしているファンからは「八百長はいけないことだが、ちょっと、厳しすぎるのでは」と不満の声も上がっている。

 元十両「若東」の黒田吉信さん(35、2世)は、今回の日本相撲協会の決定について「残念としか言いようがない。せっかく魁聖が(ブラジル人力士初の)新入幕を果たせると思っていたのに」と言葉少なだった。
 元幕下力士「東旺」の森田泰人さん(32、2世)も「自分でもびっくりしている。今回のようなケースでの中止は初めてで、本当に残念な結果になった」と驚きを隠せない様子。
 長年にわたって聖市リベルダーデ区ガルボン・ブエノ街の店頭で幕内力士の星取表を掲示板に掲載している明石屋宝石店の尾西貞夫代表は、「店に来る人によっては、『(春場所中止という)そんなに厳しい処置をする必要があるのか』という声もある。機械でなく、人間がやっていることなので、もう少し大目に見てもらいたいね」と、海外在住邦人の立場として意見を述べた。

 リオ州ノーバ・イグアスー管内のチングアに在住し、1980年代にリオ州日伯文化体育連盟の会長を務めていた原林平さん(77、長崎県出身)は、80年代半ばに全伯相撲大会出場への選手選考のためにリオ州で大会を行うなど、相撲にも縁が深い。また、各場所での大相撲放送がある時は、早朝から起きだしてテレビ中継を欠かさず見るほどの熱心さだ。
 「今の日本は相撲を目の敵(かたき)にしている。本場所が中止になれば興行が成り立たない。昔から力士の星の貸し借りなどはあったと思う。本来なら相撲を育てる必要があるのに、このままでは国技である相撲がつぶれてしまう」と原さんは危惧する。

 また、元「東旺」の父親で埼玉県人会副会長なども務める森田泰司さん(63)は、あくまで個人的な意見とした上で、「ブラジル社会に溶け込むことができないインジオが自殺するのと同じく、長い間、日本の閉鎖社会の中で現在までの相撲協会の体質が認められてきた。今回、日本のマスコミや日本の一般の人たちが、一度に膿(うみ)を出し、自分たちの社会の中に引きずり出した形では」と見ている。
 ブラジル相撲協会の篭原功会長(70、3世)は、「(春場所中止の話は)6日に1世の親戚から聞いた。本当に驚いているが、我々の立場では何とも言えない。1月30日に相撲協会の定期総会があり、幕内に上がるであろう魁聖の化粧まわしについて、どうやって贈ろうかと相談していたところだった」と、「寝耳に水」の話に戸惑いを隠せない様子だった。

2011年2月9日付」




2.こうした記事を見ると、長年にわたり大相撲を鑑賞し楽しんできた海外の日系人社会の方が、「大相撲」を良く理解していると感じます。

 「大相撲の八百長問題が大きな話題になっている。愛知県のトリプル選挙(知事、名古屋市長、市議会の解散を問う住民投票)が、日本の政治の流れを大きく変える自民、民主の政党政治を否定する結果になったのに、大相撲の問題がそれよりも大きく報道されている。日本のマスコミはどこか異常ではないか、と思ってしまう。

 というのは、大相撲の八百長問題って、そんなに大騒ぎすることかと思うからだ。大相撲は日本の国技であるが、所詮はプロスポーツの興業である。勝負が命のアマチュアのスポーツとは違う。観客を楽しませていくらの興業であり、しかもその八百長で観客、それ以外の人に被害を与えているわけではない。八百長レースだと多くの人に被害を与える競馬、競輪、競艇とは根本的に違うのだ。(中略)

 これまでも多くの相撲ファンは、出来試合があるかも知れないと思いながらも興業として楽しんできた。本割りと呼ばれる本場所以外の地方巡業では、それが出来試合と分かっていながら取り組みを楽しんできた。
 その昔から、出来試合を内包しながら興業してきた大相撲(1980年、週刊ポストが八百長疑惑を告発している)であり、いまさら本場所まで中止し、大騒ぎすることではあるまい

 それよりもむしろ、相撲ファンの楽しみを奪う興業中止こそが問題ではあるまいか。前頭、十両から陥落を防ぐための星の貸し借りなど、ほほえましいものではないか…。」



 「このニュースは、日系社会にも大きなショックを与え、特にNHK国際放送での相撲観戦を楽しみにしているファンからは「八百長はいけないことだが、ちょっと、厳しすぎるのでは」と不満の声も上がっている。(中略)

 長年にわたって聖市リベルダーデ区ガルボン・ブエノ街の店頭で幕内力士の星取表を掲示板に掲載している明石屋宝石店の尾西貞夫代表は、「店に来る人によっては、『(春場所中止という)そんなに厳しい処置をする必要があるのか』という声もある。機械でなく、人間がやっていることなので、もう少し大目に見てもらいたいね」と、海外在住邦人の立場として意見を述べた。」



海外在住邦人としては、「大相撲の八百長問題って、そんなに大騒ぎすることか」「いまさら本場所まで中止し、大騒ぎすることではあるまい」という声が出ていることから分かるように、日本のマスコミは何をいまさら馬鹿騒ぎをしているのかという意識であることがよく分かります。

日本のマスコミは、いつも内向きでなぜ、広い視野で判断しないのでしょうか。海外では、相撲での八百長ごときでなぜ、本場所まで中止したりするなんて、異常ではという意識をもっているのです。海外新聞は、民主党の大敗した選挙よりも八百長について大騒ぎしているマスコミの姿を見て、「日本のマスコミはどこか異常ではないか」とさえ、言うのです。

日本のマスコミは、今まで大相撲の何を見てきたのでしょうか。本場所の中止に追い込んで一体、何をしたいのでしょうか。マスコミは、ただやみくもに批判するだけで、何の具体的な改善策を示そうともしないのです。日本の全国紙は、大相撲について何も分からない素人として馬鹿騒ぎするだけなのですから、そんな馬鹿げた報道は止めるべきです。市民も全国紙(朝日、読売、毎日)の馬鹿騒ぎを無視して、購読を止めるべきです。



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【2011/02/11 22:28】 | 諸法
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民主党の小沢一郎元代表が政治資金規正法違反の罪で平成23年1月31日、強制起訴されました。東京地検特捜部が2度にわたって不起訴(嫌疑不十分)としたのを受け、検察審査会(検審)が同じく2度とも「起訴相当」と議決したことに基づく起訴です。(2月7日、民主党の小沢元代表の政治資金を巡る事件で起訴された石川知裕衆議院議員ら元秘書3人の初公判が開かれ、石川議員ら3人はいずれも無罪を主張しています。)

この強制起訴を巡る報道について、ジャーナリストによる論説を2つ紹介します。



1.毎日新聞平成23年2月7日(月)付朝刊11面「メディア時評――横田 由美子・ルポライター」

独自色を前面に出すべきだ

 1月31日、小沢一郎民主党元代表が強制起訴された。改正検察審査会法の施行後、政治家が市民の判断で起訴された初めてのケースだ。今後の政局を占うという意味でも、注目度の高いニュースであることには違いはない。

 だが、翌日の新聞各紙の報道は、予想された域を出ず新味に乏しかった。各紙、延々と類似の政局報道が続く。社説にしても、一般読者からすると似たような印象をぬぐえない記事ばかりが並ぶ。

 朝日は「市民の判断に意義がある」と司法改革の試みを論じつつ、冷静に公判を見つめようと言いながら、「法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題」とし、暗に辞職を迫った。その点、産経は直接的でわかりやすい。「やはり議員辞職しかない」と断言。しかし、検察審の「強制起訴」に対する意見は、それこそ前例がないだけに、判断が分かれている。裁判所の判断が出る前に辞職を迫るのは拙速だ。もちろん小沢氏側が「説明を尽くしている」と主張しようとも、多くの国民が説明責任を果たしていないと感じていることは各種調査でも明確だ。読売、日経、毎日の見出しに「けじめ」という言葉が使われているのはそのためだろう。読売は検察審の意味づけよりも、法廷に立つこと自体に政治家の道義的責任が問われるとする。日経は、検察審が重視した証拠の信ぴょう性にこそ疑問符をつけたが、読売同様に小沢氏に処分を下せない党の姿勢を批判。毎日は、国政を混乱させた「けじめ」として最低限の離党をすべしという意見だ。

 いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった。

 小沢氏の「政治とカネ」をめぐる一連の報道では、新聞やテレビなどのいわゆる「既存の大手メディア」とネットの世界では、論調や意見に大きな隔たりがある。ネットでは小沢氏を支持する意見が圧倒的だ。彼らのコメントからは、大新聞に代表される既存メディアや検察審に対する不信が頂点に達した感がある。

 新聞之読者離れが課題になって久しい。読者を再度ひきつけるには、これまでの取材・報道姿勢を見直し、独自色をより前面に出すべきだ。メディアをとりまく情勢は刻一刻と変化している。

 1月27日、フリーランサーやネットメディアの記者が有志で自由報道協会(仮)を設立し、小沢氏の記者会見を主催した。問題は事の是非ではなく「政局ではなく政策について質問してほしい」と小沢氏が出席理由を述べたことだ。権力闘争などの政局報道は面白いが、社説同様、細部にこだわり近視眼的になってはいなかったか。そこに既存メディアが変わるためのひとつの答えがあるように思う。」




2.毎日新聞 2011年2月7日(月) 東京朝刊 11面「鳥越俊太郎 ニュースの匠」

ニュースの匠:私情が一番コワい=鳥越俊太郎

 私が小沢一郎氏を当コラムで取り上げると、いわゆるジャーナリストと称する方々が次々と私の実名をあげて批判を展開する。よほど痛いところを突いてしまったのかもしれない。朝日社説子しかり。今回は私の大先輩、岩見隆夫氏(「サンデー毎日」1月30日号「サンデー時評」)です。

 私もそのコラムの見出しにならって「岩見隆夫さんは間違っている」というタイトルで反論してみます。岩見さんの論点は「『不起訴=虚構』はとんでもない短絡」という批判です。その論拠として検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったことを挙げる。しかし、内部に何があろうと<不起訴>という現実が法と証拠に基づく司法の最終結論であり、結論までのプロセスでいろいろ議論があったらしいという推論で小沢氏を黒く見せようとする立論は、私の恐れるファシズムへの道であります。

 岩見氏は戦争の体験をどう総括されているのか。<アカ>という言葉ですべての戦争反対論者を葬り去り、国民を戦争賛美者に駆り立てていった苦い経験。私たちメディアで働く者は、分かりやすい言葉で国民を雪だるまが坂道を転がり落ちるような状態にしてしまわないように心すべきである。私はいま、「政治とカネ」の言葉が国民を思考停止状態に陥らせていると判断するのであえて「言葉のファシズム」という表現を取らせていただいたのです。

 岩見さんは、鳥越の主張は「検察不信」が小沢擁護に直結しているという。私はそんな感情論からスタートしているのではない。「検察の現実」からスタートしているのです。

 あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。

【関連リンク】
<牧 太郎・二代目・日本魁新聞社BLOG>大先輩・岩見隆夫VS鳥越俊太郎
http://www.maki-taro.net/index.cgi?e=1396


【関連記事】
<岩見隆夫氏のコラム>サンデー時評:鳥越俊太郎さんは間違っている(サンデー毎日 2011年1月30日号掲載)
<議論の元になったコラム>ニュースの匠:「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎(1月10日掲載)
<関連コラム>木語:「肉食」「草食」の共通点=金子秀敏

毎日新聞 2011年2月7日 東京朝刊」




3.民主党の小沢元代表の政治資金に関する事件報道については、無罪推定の原則(憲法31条)を無視した報道の数々には、怒りを覚えます。やっと真っ当な論説がジャーナリストの側から出たようです。


(1) ルポライターの横田由美子さんは、小沢氏報道を巡る大手メディアすべてに批判をしています。

 「各紙、延々と類似の政局報道が続く。社説にしても、一般読者からすると似たような印象をぬぐえない記事ばかりが並ぶ。
 朝日は「市民の判断に意義がある」と司法改革の試みを論じつつ、冷静に公判を見つめようと言いながら、「法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題」とし、暗に辞職を迫った。その点、産経は直接的でわかりやすい。「やはり議員辞職しかない」と断言。しかし、検察審の「強制起訴」に対する意見は、それこそ前例がないだけに、判断が分かれている。裁判所の判断が出る前に辞職を迫るのは拙速だ。(中略)
 いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった。」


要するに、大手メディアは、「刑事裁判では無罪推定の原則の大原則がありそれを遵守しなければならず、さらに検察審の『強制起訴』に対する疑問点があるにも関わらず、『道義的責任』や『けじめ』という道徳観念を強調して、議員辞職という法的な効果を強要するのは、おかしいのではないか」、「いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった」と。これは真っ当な論説です。


 イ:私たちは誰であれ、「犯罪者」だと疑われた場合、その犯行が客観的事実により証明されない限り犯罪者だとはされないという人権が保障されています。だからこそ、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有」し(憲法37条1項)、さらに、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(38条1項)ことになっています。

つまり、これが「無罪の推定」の原則というものの中身です。

この無罪推定の原則からすれば、小沢氏への嫌疑を立証する責任は検察当局の側にあります。これが憲法上の原則であるわけです(「『無罪の推定』の原則」(小林節・慶応大学教授の『一刀両断』・大阪日日新聞平成22年1月26日付)参照)。ですから、被告人である小沢氏側が疑惑を解明する責任はないことはもちろん、小沢氏を有罪視することはしてはいけないのです。

それなのに、大手新聞メディアは、「道徳観」を持ち出して、事実上、無罪推定の原則を奪うような報道をするのですから、憤りを感じざるをえません。無罪推定原則に違反する「有罪視報道」は、「止める、止める」と言いながら、いつも珍妙な理屈を持ち出して、結局は、有罪紙報道を繰り広げるのが大手メディアです。憲法を蔑ろにする大手メディアには、非常に不信感を抱きます。


 ロ:しかも、今回の検察審査会による強制起訴は、検察官による起訴と異なる意味で起訴したことが明らかです。小沢氏を強制起訴と決定した起訴議決では次のように記しています。
 

「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思つて起訴しないのは不当であり、国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものである。そして、嫌疑不十分として検察官が起訴を躊躇した場合に、いわば国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる。」


最高裁判例(最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367頁)は、長年刑事裁判での事実認定を行ってきたという、検察官というプロによって、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」がないと違法であり、(憲法17条に基づく)国家賠償法による損害賠償が生じるとしています(桜井=橋本「行政法」(第2版)(弘文堂、平成21年)380頁以下、「有罪の見込みがない起訴を認めてよいのか?~検察審査会の強制起訴を巡って」(2010/09/07 [Tue] 20:43:09))。

そうだとすれば、今回の検察審査会による強制起訴は、有罪の見込みがないのに起訴するものですから、この強制起訴は、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」があるとはいえず、当然に違法な起訴と判断され、国家賠償責任が生じることは確実です。

このように、国家賠償責任が発生することが確実といえる違法な起訴は、憲法17条に反する違憲の起訴であって、明らかに検察官による起訴とは異質な起訴です。(本来は、検察審査会による起訴も、起訴される側の不利益には何等変わりがないのだから、有罪の見込みがある場合に起訴すべきなのですが、間違って運用されていること自体が問題です。)

今回の検察審査会による強制起訴は、検察官による起訴と異なる意味で起訴したことが明らかなのですから、この起訴により、小沢氏に対する道徳的責任を求めること自体に、違和感を感じます。



(2) ジャーナリストの鳥越俊太郎さんの論説は、岩見隆夫氏から受けた、根拠の乏しい批判への反論という形で、大手メディアへの批判を行っています。

「あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。」


要するに、小沢氏を巡る事件については、「法と証拠に基づいて論ずるべきであり、法と証拠に基づけば無罪になる。“長年の確信”といった法とは別個の感情論で有罪無罪を決するべきではない。」というものです。これも真っ当な論説です。


 イ:岩見氏の論説を見ていると、全く法律論が分かっていないと感じます。岩見さんは、「検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったこと」を挙げて、小沢氏の有罪は確実であるように述べてしまいます。

法律論や証拠判断には、すべての人が同じ判断になるわけではなく、異説というものが必ずあります。最高裁判例があったとしても、その最高裁判例がどんなに適切なものであっても反対する学説はあるわけで、最高裁判決が出る場合にも反対意見はあるわけです。

検察庁の内部において、起訴するかどうか議論になることはもちろん当たり前のことであり、小沢氏に対して1年にもわたり執拗に捜査をし続けた東京地検特捜部としては、メンツを守るために――戦争前の帝国陸軍と同じですが――、起訴したいという検事がいたはずです。

しかし、前述した最高裁判例(最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367頁)がある以上、メンツを守るだけのための起訴は不可能なのですから、結局は、検察庁としては、有罪となる証拠がないとする判断が多数を占め、不起訴と判断したわけです。

だから、私たちが尊重すべきは、多数を占めた不起訴となった方であって、「検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったこと」は単なる少数派の意見にすぎないとして、重視するべきではないのです。

さらに言えば、日本において99%の有罪率となっているのは、無罪となるような事件は起訴しないという点で、検察庁の方で適切な判断をしている点にも理由があります。そうであれば、その検察庁において、有罪となる証拠がないという判断をしたということは、有罪は困難であるという合理的な推認ができるわけです。

このように、岩見さんは、一般的な法律的な判断と異なる独自の意見により、法律論について判断をしているのですから、到底、受け入れることはできません。


 ロ:正直な話、小沢氏についての政治資金規正法違反の罪については、真っ当な法律家であれば、有罪となるのは極めて困難であると判断しているのです。1つ挙げておきます。

 「小沢氏が問われてるのは政治資金規正法違反の虚偽記載ですが、まあ、報道を見る限り、有罪にするのは限りなく難しいでしょう。政治資金管理団体の代表者である小沢氏は、秘書の会計責任者の記載操作に深く関与していない限り、無罪。」(日大名誉教授・板倉宏=刑法)(日刊ゲンダイ平成23年2月3日(2日発行)


なぜ、岩見さんや全国紙は、ほとんどすべてといえるほどの法律家(検察官を除く)の意見を無視して、小沢氏を有罪視する報道を繰り広げるのでしょうか。例えるならば、「専門医が、『この患者はこの薬・手術により確実に命が助かる』と判断しているのに、素人がしゃしゃりでてきて、『この患者はもうすぐ死ぬんだ!!!』と喚き散らしている」というようなものです。まったく不思議でなりません。

大手メディアは、無罪となることが濃厚な小沢氏に対して、無罪が確定したら、どのように責任を取るのでしょうか。単なる謝罪では済まないことは確実です。毎日新聞などは、廃業に追い込まれるほど、販売数が落ち込む可能性が十分にあります。




4.本来なら、誰が起訴されようとも、証拠がないままでの起訴なのですから、冤罪であるとして起訴自体に批判を行うのが、メディアとしての役割だったはずです。ところが、いまや全国紙は、無知無能な菅直人一派の擁護者となり、社説はいつも「共同社説」のようです。

2008年3月。ニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」が終わりました。
自らの名を冠した番組の最後の放送で、アンカーであった筑紫哲也さんは、自らが目指したニュースのあるべき姿をこう語りました。

「力の強い者、権力に対する監視の役を果たし」
「ひとつの方向に流れやすいこの国の中で、少数派であることを怖れず」
「多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由の気風を保つ」


検察に対する監視、起訴という重大な人権侵害に対する監視、政権公約を無視し続ける菅直人政権に対する監視・批判を止めてしまった大手メディアに属する社員は、筑紫哲也さんの言葉なんて、誰もが忘れてしまったようです。



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【2011/02/08 01:15】 | 諸法
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machcat
鳥越氏と横田氏のコラムは正に正論だったと思います。 それに反する岩見氏のコラムは唖然とさせられました。 これが日本のジャーナリストなのか・・って

いつから疑わしきは罰するが近代法の原則になったんでしょうかね。 彼らは戦前の日本の憲兵でも復活させたいんでしょうか・・

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大相撲の八百長問題で危機に立つ日本相撲協会(放駒理事長=元大関魁傑)は平成23年2月6日午前、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、3月13日から大阪府立体育会館で予定されていた春場所の中止を正式に決めました。本場所中止は、戦争で被災した旧国技館の改修が遅れた1946年夏場所以来65年ぶり2度目で、不祥事では初となります(時事通信:2011/02/06-13:19)。

この決定は、大相撲により生計を立てていた多くの市民に対して回復し難い経済的な打撃を与え、体が自由に動かないためテレビでの大相撲観戦を心の拠り所としていたご高齢の方などへ大きな精神的な打撃となることが予測されます。散々、大相撲を批判していた全国紙(朝日、読売、毎日)や菅直人一派は、これらの市民の被害に対して何も保障するわけがなく、ただ、批判をして終わるだけなのです。


この「大相撲・八百長疑惑」問題については、「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)で一度触れましたが、もう一度触れてみたいと思います。



1.朝日新聞平成23年2月3日付夕刊11面

「力士はカネでどうにでもなる」暴力団関係者の「常識」
2011年2月3日15時2分

 「相撲で八百長が行われているのは私らの世界では常識だ」。大相撲の取組を賭けの対象にする賭博にかかわっているという複数の暴力団関係者は、そう証言する。接近を試みた力士に普段から酒食でもてなして関係をつくり、仕掛けたい一番の前に不正を依頼する、というやり方だ。今回明らかになった疑惑の構図や動機はまだ明らかではないが、暴力団関係者らは「力士はカネでどうにでもなるというのも私らの常識」と言う。

 相撲賭博は、多くの暴力団組織が「手軽な資金集め」として重宝しているという。サイコロ二つの目の合計が奇数か偶数かを賭ける「丁半ばくち」と同じように単純に力士の勝ち負けを予想するだけで、客には人気がある。

 多くの場合、客からの注文取りは取組一番ごとに行い、締め切りは取組の直前までとしている。力士が四股を踏んでいるときに携帯電話で「どっちにする?」と聞く。賭けの対象は、番付最下位の序ノ口から最高位の横綱まですべての力士の取組だ。

 賭け金は、1万円の客もいれば10万円張る客もいる。賭博を仕切る胴元は勝った客、負けた客の双方から賭け金の1割を取る。精算は末端の組員に担わせる。負けた客のところには回収に出向き、勝った客は組員のアパートなどに呼んで支払う。1日の取組で約300万円が動くが、胴元が損をすることはない。精算役の組員には「逮捕されても胴元の名や組織のことは絶対に明かすな」と言い含めているという。

 のめり込んだ末に数百万円負ける客もいる。「何とかならないか」と胴元側に泣きついてくる。ここから八百長の仕掛けが始まる。暴力団関係者が、日頃から手なずけている力士に、客を居酒屋などで引き合わせる。客が力士に「あすは勝ってくれよ」「必ず負けろよ」と頼む。聞き入れてくれたら数十万円出す、と約束する。「簡単に応じる力士は少なくない」と暴力団関係者は話す。

 一方で、別の暴力団関係者は「現役の力士からは『賭博と関係なく八百長を行うこともある』と聞いた」という。負け越しの危機に直面した力士が、地位陥落を免れるため対戦相手に負けるよう頼む。そんなことが珍しくない、と懇意の力士は明かしたという。(編集委員・緒方健二)」(*紙面(3版)での表題は「『相撲で八百長 常識』暴力団関係者」



緒方健二・編集委員は、(親密な関係にある?)暴力団関係者の言葉をひいて「相撲で八百長が行われているのは私らの世界では常識だ」という署名記事を出しています。こうした意識は、大相撲の歴史に詳しい方や長年の大相撲ファンであれば、確実な証拠の有無はともかく、通常の認識であるはずです。(ただ、暴力団関係者の言葉は、真実性の相当の根拠があるのか、真実であるとしてもこの暴力団関係者とはどういう関係なのか、多くの疑問がありますが。)

(1) これに対して、素人さんの意識丸出しなのは、西村欣也・編集委員による署名記事です。

スポーツとは認めぬ

 国技といわれてきた大相撲は果たしてスポーツとして成立していたのだろうか。今回の八百長疑惑は日本相撲協会に根源的な問題を突きつけている。

 人々はスポーツに何を求めているのか。フェアネス(公正性)を根源に置いた感動だ。アスリート(選手)がフェアに戦い、全力を尽くして勝敗を争うからこそ、見る者の心は動く。五輪も、サッカーワールドカップも、プロ野球も、高校野球も、だからこそ多くのファンの支持を得ている。

 もし、そこに八百長がからんでいるとすれば、それはスポーツとは呼ばない。ただの興行であり、ショーである。(中略)

 野球賭博問題が発覚した時は早々と幕引きを図り、本場所の開催を強行した。しかし、八百長はスポーツの根幹にかかわる問題だ。徹底的な解明がはかられるまで、ファンは大相撲をスポーツとして認めない。」


西村・編集委員によれば、「<1>大相撲は(議論の余地なく)興行ではなくスポーツであって、<2>スポーツである大相撲では、八百長は決して認めない」というわけです。(なお、「人々はスポーツに何を求めているのか。フェアネス(公正性)を根源に置いた感動だ」という記述は、岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(ダイヤモンド社、2009年)からの盗用(良く言えば『ネタ元』)と思われる。)


(2) しかし、本当に、大相撲はスポーツなのでしょうか。西村・編集委員の論説に対して、緒方・編集委員は同日付夕刊において、「昔から相撲では八百長があるのは常識である」と真っ向から反論しています。はっきりいえば、緒方・編集委員からすれば、「西村は、大相撲について無知であって、常識知らずだ。」と、批判をしているわけです。暴力団関係者が賭博として関係をもつことができるということは、当然ながら、「相撲は興行である」という面があるからで、西村・編集委員の論説もまた、「相撲は興行である」ということが前提ということでしょう。

そもそも、親方や力士など大相撲一行が地方で行う「巡業」は、まさに「興行」そのものなのです。

(国語)じゅんぎょう ―【巡業】 (三省堂「大辞林 第二版」より)
(名)スル
いろいろな土地をまわり、各地で興行すること。
「地方を―する」」


大相撲は、年に何度も「興行」を行っているのに、本場所は「興行ではなくてスポーツである」という区分けができるのでしょうか。

西村・編集委員は、もし本物のスポーツ記者であれば、「大相撲には八百長があること」は十分に知っていたはずで、大相撲は興行の面が多分にあることは十分に知っていたはずですが、こうした虚偽の記事を書くくらいですから、西村・編集委員は本物のスポーツ記者ではなく、無能なのでしょう。 だからこそ、西村欣也・編集委員が署名入りで「実質的な訂正記事」を出したわけです。



2.では、相撲は、西村欣也・編集員が当然のように思っているように「スポーツ」なのでしょうか? それとも「興行」なのでしょうか? また、大相撲で行われている八百長は、決して許されないものなのでしょうか? それとも、日本の文化なのでしょうか? この点について、東京新聞が「こちら特報部」において記事にしていましたので、紹介してみたいと思います。


(1) 東京新聞平成23年2月5日付朝刊22・23面【こちら特報部】

八百長は日本の文化? 相撲と切れぬ縁
2011年2月5日

 力士たちが交わした携帯メールの“動かぬ証拠”から、大相撲の八百長問題が明るみに出たが、これまでも疑惑はたびたび浮上。「やっぱりね」「まん延しているのでは」-。いまさらの感をぬぐえない人も多いのではないか。大相撲に限らず、野球やサッカーなどのプロスポーツでも八百長事件は相次いでいる。真剣勝負なのか、見せ物なのか。フェアプレーに線引きはあるのか。スポーツと興行の境目を考えてみた。 (篠ケ瀬祐司、秦淳哉)

■隠岐の伝統行事 禍根残さぬ“人情取組”

 八百長と相撲とは何かと縁がある。そもそも語源が相撲がらみなのだ。

 「広辞苑」や「大辞林」などによると、明治時代に八百屋の長兵衛(通称「八百長」)が、商売の便宜を図ってもらおうと、相撲の年寄(親方)と碁を打つ際、常に一勝一敗になるように手加減していた。そこで真剣勝負にみせて、打ち合わせ通り勝負をつける意味に使われるようになったという。

 伝統行事では、勝ちを譲る風習もみられる。

 島根県隠岐の島町に古くから伝わる「隠岐古典相撲」。二人の力士が二番続けて取り組み、一番目に勝った力士が、二番目はわざと負け、対戦成績を引き分けにする。「その後の地域の付き合いもあるので、禍根を残さないようにする」(隠岐の島町観光商工課)ための知恵で、「人情相撲」と呼ばれている。

 大相撲では、しばしば八百長疑惑が持ち上がった。

 1963年、石原慎太郎・現東京都知事が、スポーツ紙で柏戸と大鵬の横綱全勝対決は八百長だと語った。96年には、元大鳴戸親方(元関脇高鉄山)が週刊誌で八百長疑惑を告白。2000年にも元小結の板井圭介氏が、日本外国特派員協会などで八百長の存在を告発した。07年にも週刊誌が横綱朝青龍らの八百長疑惑を報道。日本相撲協会が名誉毀損(きそん)で提訴し、10年に協会側の勝訴が確定している。

 相撲以外のスポーツでも、八百長問題は頻繁に起きている。一例を挙げると、プロ野球で69年に発覚した「黒い霧事件」で、野球賭博に関与したとして、元西鉄の池永正明投手らが永久追放された(池永氏は05年に処分解除)。台湾球界の八百長事件でも、球団「兄弟」監督だった元阪神の中込伸投手が昨年、有罪判決を受けた。

 欧州サッカー界では05年、イタリアの古豪ジェノアが最終戦で1部リーグ(セリエA)への復帰を決めたが、八百長発覚で3部へ降格処分に。06年には名門ユベントスの幹部が審判に圧力をかけた八百長事件で2部へ降格処分となった。

 日本のプロ野球協約では「故意に敗れ、または敗れることを試み、あるいは勝つための最善の努力を怠ること」を不正行為として禁止。違反した場合は永久追放との明文規定がある。サッカーのJリーグ規約も「選手、監督、コーチは試合の結果に影響を及ぼす恐れのある不正行為に一切関与してはならない」とし、違反の場合はチームの除名や選手の出場権剥奪などの処分が科される。

 公営ギャンブルでは競馬、競輪、競艇ごとに個別の法律で不正行為を禁止しており、違反した場合は刑事罰の対象。スポーツの世界では八百長の禁止が常識だ。しかし、大相撲の場合は、日本相撲協会が「無気力相撲の懲罰規定」を設けているが、八百長は存在しないとしてきた。

■興行と境目なし プロスポーツの隆盛

 スポーツと興行の境目は何だろうか。

 「境目はない。グラデーション(段階的変化)だ」と、あいまいさを指摘するのはスポーツライターの玉木正之氏。「たとえばサッカーはスポーツの側面が強いが、ゴールを決めた選手のパフォーマンスなど興行的な行為も許される。プロレスはほとんど興行でも、スポーツの要素がないわけではない」。大相撲は両者の中間にあり「サッカーよりは興行面が濃く、プロレスよりはスポーツ的だ」という。

 力士はアスリート(競技者)と呼べるのか。「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手だ」として、別の存在とみる。その上で「力士にはオリンピック選手とは別の、相撲なりのフェアプレーが大切になる。例えば立ち合いでは目と目を合わせ、気合いがあった時に立つ。西洋生まれのスポーツは始めから相手のすきを突こうとする。相撲は相撲のままでいい」。

 玉木氏は、今回の八百長問題に社会の変化を感じている。「七勝七敗の力士が千秋楽に勝ち越すのは『人情相撲』といわれてきた。もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題だが…。社会が大相撲にスポーツ面を求め過ぎて、興行面のあうんの呼吸に理解をなくしているようだ」

 「八百長は日本の文化。江戸時代からあった」と話すのは生沼芳弘東海大教授(スポーツ社会学)。「日本に近代スポーツが入る前、フェアプレーの概念がない時代には、相手が十両から落ちると分かれば負けてやるのが人情だった。何事も情で動く側面が昔からある」と分析する。

 さらに「相撲トーナメントのような花相撲では、力士は本気で戦わない。本割でもないのにけがすれば大変だからだ。これは八百長と変わらない」とも。

■欧米倫理 厳しい目も

 一方で、日本でも欧米スポーツが盛んになり、人々は八百長を許せなくなったとみる。「欧米のスポーツには公正な倫理観があるため、ドーピング検査も徹底的にやる。七勝七敗の力士と六勝八敗の力士が当たると、前者が八割の確率で勝つとする研究があったが、調査したのは日本人ではなく米国の経済学者。欧米には日本のようなおおらかさがない」と指摘。

 生沼氏は「スポーツが無慈悲でドライになったといえるが、社会の変化に相撲界が気が付いていない。経済的に苦しい時代を乗り越えて財団法人になったのに、あぐらをかいている」と日本相撲協会を批判する。

 慈恵医大相撲部の富家孝総監督は「スポーツも興行の一種。相撲の八百長も、これまで口約束や現金払いで済ましていたが、インターネットやメールの発達で表面化しただけ」とみる。

 新日本プロレスのリングドクターの経験もある富家氏は、プロレスと相撲の違いについて「プロレスは虚と実の間にあるスポーツ。観客はすべてを踏まえた上でエンターテイメントとして見ている」と指摘。

 相撲については「財団法人としての税制の優遇を受け、天皇陛下も観戦する大相撲の八百長にはファンも失望する。同じ犯罪でも、民間人より公務員が起こせば非難されるのと同じだ。税金で面倒をみてもらっているスポーツは倫理観がなければいけない」と苦言を呈する。

 ただ、富家氏は、相撲にはほかのスポーツにはない利点、守るべき文化があると強調する。「相撲界は平等の社会。弟子入りすれば誰でも土俵に上がれるし、星を挙げれば上の地位に進むこともできる。監督の戦術に合わずに出場機会がない野球やサッカーなどの選手とは大きな違いだ」

<デスクメモ>

 「負けるが勝ち」とは、争おうとはせず一時的に負けても、最終的には勝つことになるという意味だ。子どものころ運動会や競技会で負けるたびに使わせてもらったセリフだが、最終的に勝った覚えは一度もない。ただ、勝利を相手に譲る行為は何とも美しい。金銭のやりとりが伴えばブーイングだけど。(立)」

 

 
(2) この記事には、相撲は興行の面が強いことが指摘されています。

 「スポーツと興行の境目は何だろうか。

 「境目はない。グラデーション(段階的変化)だ」と、あいまいさを指摘するのはスポーツライターの玉木正之氏。「たとえばサッカーはスポーツの側面が強いが、ゴールを決めた選手のパフォーマンスなど興行的な行為も許される。プロレスはほとんど興行でも、スポーツの要素がないわけではない」。大相撲は両者の中間にあり「サッカーよりは興行面が濃く、プロレスよりはスポーツ的だ」という。

 力士はアスリート(競技者)と呼べるのか。「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手だ」として、別の存在とみる。その上で「力士にはオリンピック選手とは別の、相撲なりのフェアプレーが大切になる。例えば立ち合いでは目と目を合わせ、気合いがあった時に立つ。西洋生まれのスポーツは始めから相手のすきを突こうとする。相撲は相撲のままでいい」。

 玉木氏は、今回の八百長問題に社会の変化を感じている。「七勝七敗の力士が千秋楽に勝ち越すのは『人情相撲』といわれてきた。もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題だが…。社会が大相撲にスポーツ面を求め過ぎて、興行面のあうんの呼吸に理解をなくしているようだ」」


相撲では、相撲の取り組み毎に懸賞金が掛けられています。こうした懸賞金は、明確に金のやり取りがあることをあからさまに行っているわけで、これは相撲の取り組みは商売・興行の面があることを示しており、純粋なスポーツではないことを示しています。

また、大相撲で行われている弓取式(ゆみとりしき)、すなわち、「大相撲の本場所で結びの一番の勝者に代わり作法を心得た 力士が土俵上で弓を受け、勝者の舞を演ずること」は、大相撲では、力士が相撲の取り組み以外のことを行うことを当然視しているわけです。これは、観客に対して、大相撲は「興行」であることを明確に示しているのではないでしょうか。競技者が踊りを披露することが、競技内容とは別に要求されるにようなスポーツが、他のどこにあるというのでしょうか。

さらにいえば巡業の一環として、伊勢神宮や靖国神社で「奉納大相撲」が行われますが、これは相撲が神道に基づいた神事であるからこそ行うわけです。日本でなされているスポーツにおいて、「神事」とされ、「奉納」しているスポーツが、相撲以外のどのスポーツにあるというのでしょうか。相撲は、伝統的に「神事」の面があるのにどうして純粋なスポーツなどといえるのでしょうか。

「奉納大相撲」でも明らかなように、「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手」なのですから、力士はアスリート(競技者)ではないのです。

ですから、相撲は、興行面が強いという評価は当然なのです。西村欣也・朝日新聞編集委員が言うような「大相撲は興行ではなくスポーツである」という認識は、全く間違っているのです。



(3) 大相撲の八百長は日本の文化であるという指摘もされています。
 

 「八百長は日本の文化江戸時代からあった」と話すのは生沼芳弘東海大教授(スポーツ社会学)。「日本に近代スポーツが入る前、フェアプレーの概念がない時代には、相手が十両から落ちると分かれば負けてやるのが人情だった。何事も情で動く側面が昔からある」と分析する。

 さらに「相撲トーナメントのような花相撲では、力士は本気で戦わない。本割でもないのにけがすれば大変だからだ。これは八百長と変わらない」とも。」


相撲をよく知れば知るほど「八百長は日本の文化。江戸時代からあった」ということが分かります。そうなれば、相撲の八百長はこうした長い伝統に裏打ちされたものである以上、力士の間では八百長をするか否かのハードルは低くなってくるわけです。

また、相撲は、興行の面が強いのだとすれば、力士の競技生命・生計を維持し、興行として長く興行成績をあげるためには八百長がありうるわけで、八百長は暗黙の了解ということになってきます。

すべての取り組みが八百長というわけではないことは誰もが分かります。しかし、そのうち、幾つかの取り組みにおいて「人情相撲」があり得るというわけなのです。

ですから、西村欣也・朝日新聞編集委員が言うような「スポーツである大相撲では、八百長は決して認めない」という認識は、全く間違っているのです。記事にあるように八百長の「語源が相撲がらみ」であることからしても、西村・編集委員の認識が間違っていることが分かるはずです。




3.最後に。

大相撲は、興行の面が強く八百長もあり得ることは、前々から分かっていたことです。

もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題なのでしょうが、そうした情報にはなっていないのですから、いまさら八百長疑惑を報道するようなことでもないはずです。マスコミは、朝青竜の言動に対しては、スポーツと異なる精神性を求めて批判しておきながら、八百長疑惑問題では、一転して、スポーツ性を強調して批判するのですから、実にいい加減です。

しかし、なぜ、全国紙などはあたかも今八百長を知ったかのように、激しく批判をするのでしょうかそれよりまして、なぜ、今、警察関係者は八百長の存在を報道関係者にリークしたのでしょうか

警視庁の野球賭博事件の捜査で浮かんだメールが八百長疑惑の証拠なのですから(昨年の7月に力士の携帯電話などを押収)、昨年の夏には分かっていたことなのです。なぜ、わざわざ春場所の直前になってから、捜査機関は、リークしてマスコミを藁人形のように動かし、過剰に煽らせ、重大問題であるかのように問題視させる必要があるのでしょうか。(捜査機関側の意図は、「2011/02/05(Sat) 16:04付のrice_showerさんのコメント」を参照。

また、なぜ、国会開会後、無知無能な菅政権が立ち往生している時期に、わざわざ、市民の目を逸らすような「馬鹿馬鹿しい情報」を流して、菅直人一派の延命を図るようなことをするのでしょうか。今、国会では、全国民に影響する問題を処理することが求められているのにも関わらず、相撲の八百長問題を取り上げ糾弾するような馬鹿な閣僚ばかりなのです。(それを大きく取り上げる朝日新聞などの全国紙は、当然ながら、「菅直人一派の延命」を画策する意図があるわけです。)

私たち市民は、相変わらずの捜査情報リークに基づいた「八百長疑惑報道」や「ウソ記事」に惑わされることなく、捜査関係者の意図や、国民の目を逸らそうとしている菅直人一派の言動に、厳しい目を向けるべきなのです。



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【2011/02/06 17:07】 | 諸法
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資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐる政治資金規正法事件において、東京第5検察審査会の起訴議決を受けた小沢一郎民主党元代表側は平成22年10月15日、「起訴議決は違法で無効」だとして国を相手取り、<1>強制起訴議決の取り消しを求める訴訟、これに基づく指定弁護士の指定の差し止め訴訟といった行政訴訟(抗告訴訟)を東京地裁に起こしました。強制起訴の手続きが始まるのを避けるため、<2>強制起訴議決の執行停止と指定弁護士指定の仮の差し止めも合わせて申し立てています。



1.まず、小沢氏弁護団公表の文書要旨と、解説記事を一つ。

(1) 共同通信(2010/10/15 13:16)

小沢氏弁護団公表の文書要旨
 
 民主党の小沢一郎元代表の弁護団が訴状に代わって公表した文書の要旨は次の通り。

 強制起訴議決は検察審査会の権限を逸脱した違法なもので、全体が無効だ。議決の取り消しと、これに基づく指定弁護士の指定の差し止めを求める訴訟を提起するとともに、議決の執行停止と指定弁護士指定の仮差し止めを申し立てる。

 今回の議決は(1)陸山会の土地購入をめぐる、いわゆる「期ずれ」についての虚偽記載の事実(2)陸山会が小沢氏から4億円を借り入れたことについての虚偽記載の事実とを犯罪事実としている。

 しかし、4億円借り入れの事実は、小沢氏に対する告発、不起訴処分、検察審査会の1回目の審査とそれによる起訴相当議決、再度の不起訴処分のいずれでも容疑事実として取り上げられていない。強制起訴を行うには、検察官の2回の不起訴処分と検察審査会の2回の議決とを必要とした検察審査会法に正面から反する。

 4億円借り入れの事実は、この事実を隠すために偽装工作として銀行借り入れまでなされ、収支報告書の虚偽記載の動機となったと認定されている。また、資金の出所自体に疑惑が潜んでいるかのように言及され、強制起訴議決の根拠とされている。土地購入をめぐる「期ずれ」の虚偽記載の事実のみが対象とされていれば、強制起訴するという結論自体が否定された可能性が極めて高い。

 無効な強制起訴議決の効力を否定し、指定弁護士の指定や小沢氏に対する起訴がなされることを回避するためには、強制起訴議決の取り消し訴訟や指定弁護士の指定の差し止め訴訟といった行政訴訟(抗告訴訟)が可能だ。古くは検察審査会の議決の適否は行政訴訟の対象とならないとした判例もあるが、それは強制起訴制度が導入される前の判例で、今日では妥当ではない。

 指定弁護士の指定は、裁判所がするものではあるが、公務員ではない弁護士に捜査や起訴といった公権力の行使を行う地位を与えるもので、行政訴訟の対象となる行為と考えられている。

 万が一、強制起訴議決や指定弁護士の指定がそれ自体として行政訴訟の対象とならない場合には、小沢氏が自らを容疑者とする指定弁護士の指定をされない地位を有する確認を求める訴訟(当事者訴訟)が可能なはずである。

 加えて、訴訟の結論が出るまでの間に小沢氏に生じる重大で取り返しのつかない損害を回避するために、強制起訴議決の執行停止と指定弁護士指定の仮の差し止めを求めることとした。

 強制起訴議決以来、小沢氏には激烈な取材と報道が集中しており、精神的・肉体的負担は筆舌に尽くし難い。指定弁護士が指定され、指定弁護士による捜査が開始されれば、それに対する対応も必要であり、万が一の起訴にまで至れば、その応訴の負担は極めて大きなものとなる。現実化しつつある政治活動への制約が深刻なものであることは周知の通りで小沢氏本人のみならず、わが国の民主政治自体の損失でもある。

 これらの損失は、いったん生じてしまえば取り返しのつかないもので、強制起訴議決の効力が訴訟によって最終的に否定されるまでの間、指定弁護士の指定をされないことはむしろ当然である。強制起訴議決が検察審査会の権限を逸脱してなされた違法なものであるにもかかわらず、それに基づいて指定された指定弁護士の捜査を甘んじて受け、自らに対する起訴を座して待たなければならないのであれば、そのこと自体が憲法違反と考えられるべきである。

 以上のように、今回の強制起訴議決は、検察審査会の権限を逸脱してなされた違法なものであって、全体として違法であるから裁判所の判断を仰ぎ、その効力を否定することを求めるのは、小沢氏の当然の権利である。

2010/10/15 13:16 【共同通信】」



(2) 日経新聞平成22年10月15日付夕刊19面

「訴訟対象外」の判例  「法改正で前提崩れる」指摘も

 検察審の議決を不服とした提訴については「行政訴訟の対象外」とした1966年の最高裁判例がある。小沢氏側は「法改正で検察審の議決が拘束力を持つことになり前提が変わったので、判例は適用されない」と主張しているが、法曹関係者からは「不服ならば、刑事裁判の中で争うべきだ」との声も出ている。

 66年の判例は、深夜まで騒がしいすし店を軽犯罪法違反に当たるとして告訴した男性が、検察審の不起訴相当議決の無効確認を求めた訴訟。一、二審は「議決は検察官を拘束せず、個人の法的関係に直接影響を与えない」と指摘して訴えを却下し、最高裁も支持した。

 当時は検察審の議決には拘束力はなかったが、昨年の法改正で、2回目の起訴議決により強制起訴される規定が新設された。ある裁判官は「66年判例の前提は崩れた」と指摘するが、一方で「間接的に起訴の当否を判断することになり、行政訴訟の対象となる行政処分には当たらない」として、現在でも提訴は不適法との見方も有力だ。

 刑事裁判では、検察官は一定の範囲で起訴内容を変更する「訴因変更手続き」ができる。今回、起訴議決で追加されたのは同一年の政治資金収支報告書の記載に関する内容なので、訴因変更が認められる余地もある。

 このため提訴について、法曹関係者の間では「公判が始まった後に公訴棄却を求め、起訴の効力を争うのが筋だ」との声が根強い。「いずれにしても現行制度下で例がなく、明文規定も未整備」(裁判所関係者)で、事態の先行きは不透明だ。」



「検察審査会の議決「無効」として、小沢氏が国を提訴~審査会と吉田繁実弁護士が杜撰だったことが最大の原因」(2010/10/15 08:09)において触れたように、この問題は、2つの問題を分けて考える必要があります。

「この事件についての問題点は、大きく2点あります。

(1) 1つ目は、東京第五審査会が、<1>「告発事実」が審査対象のはずなのに、それを超えた容疑まで「犯罪事実」に加えたこと、さらに、<2>「起訴相当」とした1度目の議決に含まれない「4億円」を2度目で加えています。このように議決に瑕疵があることで、その審議会の議決は違法となるのかどうか、という点です。

(2) 2つ目は、違法な審査会の議決に対して、行政訴訟を提起することができるかどうか、です。」


要するに、起訴議決が、検察審査会法に照らして違法なのではないか、という実体法上の問題と、違法な起訴議決に対して、どのような訴訟手続によって救済するべきかという救済手続の問題に分けて考えなければなりません。

2.では、この2点について検討してみます。


(1)検察審査会は、世にある全ての事件についてその当否を判断し、誰に対しても起訴議決ができると言う制度ではありません。

検察審査会法では、検察審査会は告発内容に沿って検察官の不起訴処分の当否を判断するのであって(検察審査会法法2条2項、30条)、独自に事実認定をすることを予定していないのです。そして、検察官の2度の不起訴処分に対し、強制起訴には2度の議決が必要となるという制約があるのです(同法41条の2、41条の6第1項)。

とすれば、<1>告発に内容に含まれていない事実について、<2>2回の審査を経ずに議決をしたことは、検察審査会法に照らせば、違法という判断(実体法上の問題)に至ることは明らかでしょう。



(2)ちなみに、検察審査会法上、違法だとしても、刑事裁判においてその瑕疵を治癒できるのではないか、という見方もあるようです。すなわち、起訴の段階では、告発内容にない事実や2度の審査を経ていない事実を起訴しないでおいて、「訴因変更手続」によって、そうした事実を「訴因の追加」として(刑訴法312条1項)請求すれば、裁判所がその請求を認めることで適法となる、というわけです。

「刑事裁判では、検察官は一定の範囲で起訴内容を変更する「訴因変更手続き」ができる。今回、起訴議決で追加されたのは同一年の政治資金収支報告書の記載に関する内容なので、訴因変更が認められる余地もある。」(日経新聞)


しかし、(1)先行する実体法上の違法を、後行の手続である訴訟手続によって治癒させる(=適法)ことが可能なのか、それ自体が疑問です。起訴によって違法がそのまま承継される以上、治癒される理由がないのですから。また、(2)もし起訴の段階では、告発内容にない事実や2度の審査を経ていない事実を起訴しない場合には、検察審査会の議決と異なるのですから、ズレのある起訴はまた、それ自体で違法の問題が生じます。

(3)思うのですが、本当に適法な「訴因の追加」が可能なのでしょうか? 

検察審査会は告発内容に沿って検察官の不起訴処分の当否を判断するべきですから、それ以外の事実を加えて審理することは、結局は検察審査会法に違反した違法なものです。そうした違法な訴因を「追加」することは、違法な審理をもたらすのですから、違法な「訴因追加」手続であって、本来的に許されません

さらにいえば、類似する手続に関する判例が参考になるように思います。つまり、職権濫用罪などに関して不起訴処分になった場合、告発によって裁判所が事件を審判に付する旨を決定する手続(付審判請求手続)があります(刑訴法262~269条)。この付審判手続において、職権濫用罪で審判に付された場合、裁判所は暴行罪の事実を認定できるかが問題となったことがあります。

最高裁判例(最高裁昭和49年4月1日刑集28巻3号17頁)は、「審判に付された事件と公訴事実の同一性が認められるかぎり、この事実を認定し処断することが許されないわけではない」として、暴行と言う縮小認定できる事実の場合には、暴行罪の認定できるとしたのです(暴行の事実さえも認定できず公訴棄却すべきとする反対意見もある)。裁判所という専門家が起訴を決定し、しかも縮小認定できる事実でのみ認定することは許されるとしたのですから、検察審査会による強制起訴の場合は、公判において、有罪の見込みなくいい加減な起訴をした市民の決定であり、事実を追加するようなことは、許されないというべきです。

このように考えれば、適法に「訴因の追加」をすることは難しいように思えるのです。




3.違法な審査会の議決に対して、行政訴訟を提起することができるかどうか、という救済手続の問題は、刑事手続と行政法の所管配分の問題ですから、行政法の知識が必要となります。そこで、行政法学者はどのような判断を示しているでしょうか? 報道されているのは2人だけですが、その見解を紹介しておきます。

(1) MSN産経ニュース(2010.10.15 22:40)

小沢氏の提訴、識者はどう見る
2010.10.15 22:40

 阿部泰隆中央大教授(行政法)の話 「これまでの常識では、起訴は刑事手続きだから刑事裁判で争うべきで、行政訴訟で争うのは許されない。ただ、市民にとって刑事裁判で被告となるのは苦痛だ。今回は、検察審査会が2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点。通常の起訴の議論とは異なり、この点は行政訴訟で判断すべきではないか。起訴という国家権力を行使するという点で検察審査会も検察官と同じで、合理的証拠がなく起訴したとすれば、国家賠償責任が認められる可能性もある」



(2) 日刊ゲンダイ平成22年10月16日付(15日発行)3面

検察審議決は憲法違反濃厚の重大事

 「検察審議決に対する行政訴訟は可能です」――。こう言うのは学習院大法学部教授の桜井敬子氏(行政法)だ。

 桜井氏によると、検察審の任務は検察官と同様、事件を裁判所に持ち込むという「行政作用」であり、行政作用による「処分」であれば取り消し(訴訟)が可能――という。今回の議決の場合、<1>起訴議決の取り消し訴訟と執行停止の申し立て<2>「検察官役」になる指定弁護士の指定処分の差し止め訴訟と仮差し止め――などの手段が考えられるといい、小沢弁護団も東京地裁が進めている指定弁護士の手続き中止を求める方針だ。

 さらに桜井氏は、今回の議決は「憲法違反に当たるのではないか」とも言う。

 「憲法31条は『刑事罰を科すには適正手続きによる』と規定し、検察官が起訴する場合もきちんとした理由を示している。ところが、検察審には判断基準がなく、多数決で起訴を決めるという『完全自由裁量』のようです。今回のような(犯罪事実が勝手に加わった)理由なき起訴が許されれば憲法違反と言わざるを得ません」」


 イ:「検察審の任務は検察官と同様、事件を裁判所に持ち込むという『行政作用』であり、行政作用による『処分』であ」る点は、否定することは不可能です。また、検察官の起訴不起訴に関しては、付審判請求手続、検察審査会、公訴権濫用論というチェックがあるのですが、検察審査会の判断については、何らチェック機能がありません。そうである以上、濫用的な起訴を抑制するため、裁判所がチェック機能を行う必要があります。

とすれば、刑事裁判での裁判所が「チェック機能」をも併せ行うのではなく、検察官の起訴不起訴に関しては、付審判請求手続、検察審査会という別組織があるのと同様に、別の裁判所が行う(行政訴訟)によるのが妥当であるというべきです。

問題なのは、検察審査会の判断には適正手続(憲法31条)違反の面もある点です。これは、立法の不備というべき点です。

「「憲法31条は『刑事罰を科すには適正手続きによる』と規定し、検察官が起訴する場合もきちんとした理由を示している。ところが、検察審には判断基準がなく、多数決で起訴を決めるという『完全自由裁量』のようです。今回のような(犯罪事実が勝手に加わった)理由なき起訴が許されれば憲法違反と言わざるを得ません」」(「日刊ゲンダイ」における櫻井教授の見解)


ある特定の被告人に関する特定の犯罪事実の有無や有罪かどうかを判断するのが刑事裁判です。これに対して、検察審査会という行政機関の行った適正手続違反は、事件と関わりなく検察審査会自体が抱える、立法上の欠陥の問題なのですから、その問題のみを判断する方が、すなわち、行政訴訟で判断することが適切であるように思われます。


ロ:阿部泰隆・中大教授は、行政法の大家の一人であるだけでなく、現在、多数の行政関係事件に関与するなど、精力的に実務的な活動をしている学者の一人です(「阿部泰隆のホームページ」参照)。

また、櫻井敬子・学習院大法学部教授は、その著書が法学部・法科大学院の最も多くの学生に読まれていることから分かるように、分かり易く「行政法の真髄」を伝える方であり、行政法学者からも高く評価されている行政法学者の一人です。

一昔と異なり、司法制度改革の一環として「行政事件訴訟法の一部を改正する法律」(平成16年6月9日法律第84号)が制定され、行政訴訟による救済範囲が拡大されました(原告適格の拡大、義務付け訴訟・差止訴訟の法定化)。こうした経緯からすると、行政訴訟による救済を否定する考えは、国民一般の権利救済を拡大する行政事件訴訟法改正の趣旨に反するのです。

違法な行政活動に対して、国民一般の権利救済を拡大する方向の改正という、こうした行事件訴訟法の改正の経緯を背景にすれば、行政法学者として高く評価されている2人が、検察審査会法違反の事実は、行政訴訟の対象となるというのは、ごく自然な判断というべきです。これに対して、名前を出して公然と否定できるだけの説得的な論理を展開できる実務家はほとんどいないでしょう。




4.小沢氏側による行政訴訟に対して、読売新聞の解説(平成22年10月15日付夕刊)は否定的な見方を示しています。しかし、違法な行政活動に対して、国民一般の権利救済を拡大する方向の改正という、こうした行事件訴訟法の改正の経緯に反するような考えは、妥当なのでしょうか? 

(1) 起訴されて被告人となることは、本人や家族にとって精神的・経済的に非常に大きな負担となります。例えば、家族も犯罪者の家族とみられて苦しみます。また、普通の会社員なら起訴されるとほとんどが解雇され、生活が行き詰ることになります。後に無罪判決が出たとしても、公務員なら復職できますが、普通の会社員なら復職も難しいのが現実です(朝日新聞平成22年10月9日付朝刊(佐藤喜博・弁護士の話))。

このような人権侵害を招く起訴であるのに、今回の検察審査会は、有罪の見込みがないのに「国民には裁判で白黒つける権利がある」などと実に無責任・身勝手な判断に基づいて、起訴議決を行ったのです。こうした無責任・身勝手な強制起訴は、有罪の見込みをまるで考えない以上、今後は誰であっても、しかも今よりも大勢の人たちが強制起訴の被害を受けるのです。

検察審査会による無責任・身勝手な強制起訴に対しては、阿部泰隆・中大教授も指摘するように、国家賠償を請求できるのです(「有罪の見込みがない起訴を認めてよいのか?~検察審査会の強制起訴を巡って」(2010/09/07 [Tue] 20:43:09)も参照)。しかし、後で、国家賠償を請求できたとしても、多大な被害を生じた事実は消えないのです。

小沢一郎氏だからこうした「被害」を受けても耐えられるのかもしれませんが、他の政治家はもちろん、一般市民が同様の被害を受けたら、誰も耐えることができず、議員や職を辞する結果を招くは当然として、一家心中してしまう可能性さえもあるでしょう。

冤罪の危険が増大をまるで無視したかのような検察審査会の横暴に対して、小沢氏だけの問題として無関心でいることで本当によいのでしょうか? マスコミは、憲法31条で保障された無罪推定の原則をまるで無視したまま、延々と小沢バッシングを繰り広げていますが、こうした被害を他人事としていて、本当によいのでしょうか?



(2) ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering)は、『権利のための闘争』(1872年出版)において、次のような趣旨のことを述べています。

「いかなる権利も、それは個人の尊厳の一部である、したがってささいな権利の侵害であっても、それを自己の尊厳の否定ととらえて全面的に闘争すべきである。しかしその闘争は、実は「国家共同体」の法(権利の体系)を支えることでもある。なぜなら、法=権利の全体は、具体的な場面で個々の権利が保障されることによってのみ生命を与えられるのだから。自分にとって無関係であるからと、他者への権利侵害を見逃すものは、権利の体系全体の毀損に道を開くものであり、いずれは自らの権利を守ることもできなくなるだろう……。」(「こぼればなし」『図書』2010年9月・第739号)


他者の権利であろうと自分のそれであろうと、およそ権利が侵されたとき激しい痛みを感じ、回復の闘争に打って出る力を、イェーリングは「権利感覚」と呼んで、その涵養を「国家共同体」にとって最重要の要素と考えています。

小沢氏に生じた問題について、「自分にとって無関係であるからと、他者への権利侵害を見逃すものは、権利の体系全体の毀損に道を開くものであり、いずれは自らの権利を守ることもできなくなる」のです。そして、マスコミの誘導のまま小沢氏を非難し続け、小沢氏側による行政訴訟といった権利救済を行ったことに対して非難することは、「権利感覚」を無くしたものというしかありません。

マスコミ報道による、常軌を逸した「小沢バッシング」を無批判に受け入れ、行政訴訟といった権利救済手段を否定することは、検察審査会による被害による救済手段を自ら捨て去るという、国民が自らの首を絞めることであって、「いずれは自らの権利を守ることもできなくなる」ことになるのです。市民感情のままに、証拠に基づくことなく、気ままに起訴を決める「検察審査会という怪物」を止めるのは、我々市民の責務であるというべきです。



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【2010/10/17 22:38】 | 諸法
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