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大相撲・八百長疑惑問題については、何度か触れています。

<1>「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)

<2>「大相撲八百長疑惑問題:相撲はスポーツか興行か? 八百長は日本の文化なのか?(東京新聞平成23年2月5日付「こちら特報部」より)」(2011/02/06 17:07)

<3>「大相撲・八百長疑惑問題:海外新聞の評価~八百長疑惑は騒ぎすぎでは?」(2011/02/11 22:28)



日本の全国紙、特に、朝日新聞と毎日新聞だけは、いまだに興奮して八百長疑惑を非難し続けています。大相撲・八百長疑惑問題については、全国紙(朝日、毎日、読売)の基調は、「徹底的な八百長根絶を行うべき」というものばかりです。


1.3つほど引用しておきます。

(1) 朝日新聞平成23年2月10日付朝刊16面「記者有論」

大相撲と八百長 スポーツなら全力士の調査を――編集委員・西村欣也(にしむら・きんや)

 それならば、どうぞ、八百長をしてください、と思う。大相撲の話だ。メールでの八百長疑惑が発覚してから、様々な意見がファンや識者の間で飛び交っている。その中に「大相撲は日本の伝統文化でファンは八百長があることを薄々知っていて、それも承知の上で楽しんでいる」という言説がある。ならば、どうぞ、だ。

 大相撲は三層構造になっている難しい存在だ。古来の神事であり、興行であり、現代スポーツという三面を持っている。これをどういう順序でピラミッド構造にしていくか。興行を屋台骨にし、その上に神事、スポーツが載っているのならば、今回の問題も論じるに値しない。相撲は、元々興行なのだから。新公益法人移行など、目指すべくもない。

 しかし、私は大相撲の屋台骨はスポーツであると思っている。その上に興行と神事が積み重なった国技だという認識に立ってきた。

 ここを、まず、議論する必要があるだろう。神事を兼ねた興行なのだとすれば、大相撲は八百長の解明など無駄な努力をせず、伝統芸能として生きていけばよい。

 仮にスポーツであることを屋台骨にするなら、今回の八百長問題は大相撲の根幹を揺るがす大問題だ。八百長の疑念が少しでも入ってしまえば、それはスポーツとして認められない。(中略)

 大相撲という伝統的な国民の財産をつぶすのか、という声も聞こえる。しかし、大相撲が再生し、発展していくためにはスポーツという根幹が必要なはずだ。それがなければ、大相撲は古来行われてきた日本独自の筋書きのある興行で神事と位置づけるしかない。

 時間がかかっても全力士の全容解明を進める。プロセスをファンは厳しく見つめ続ける。そのことでしかスポーツとしての大相撲再生はできないと考える。」


西村欣也・朝日新聞編集委員は、「八百長解明ができなければ、大相撲という伝統的な国民の財産をつぶしてもよい」と言わんばかりのことまで述べています。「大相撲はスポーツなのだから、八百長は絶対にいけない」という執念があるようですが、なぜ、そこまで八百長疑惑解明に固執するのでしょうか。固執するだけの根拠は「大相撲の根幹を揺るがす大問題」と述べるだけで、なぜ、大問題なのかの理由も、何も示していないのです。単なる感情論による論説であって、とても正気の沙汰とは思えません。

西村・編集委員は、最初の論説では、根拠なく「大相撲は、興行ではなくスポーツだ」と断言していました。ところが、今回は一転して、「(実は)大相撲は三層構造になっている難しい存在だ。古来の神事であり、興行であり、現代スポーツという三面を持っている」などと述べているのです。あれほど、スポーツだと断言していたのに、謝罪をすることなく、「実は三層構造だった」などと自説の間違いの訂正を図るのですから、ずいぶんといい加減な人物です。

だいたい、「三層構造だ」なんて、一体、いつから誰が言っているのでしょうか? 急に「三層構造」などと言ったところで単なる感情論にすぎません「私は大相撲の屋台骨はスポーツであると思っている」とも言っていますが、その理由さえも何も示していないのです。

「三層構造」「屋台骨はスポーツ」などに限らず、西村・編集委員の文章は、何の理由も示していないまま独自の論理を展開しているのですから、これでは単なる個人の感想文・感情論であって何の説得力もありません。おそらく西村・編集委員は、論理的に物事を考えたり、深く物事を考える癖がないのでしょう。だから、こうした感情論だけの文章になってしまうのです。

「(興行ならば)それならば、どうぞ、八百長をしてください、と思う」という文章は、まさに、ふてくされた感情そのものです。常識ある人物であれば、スポーツだろうと興行だろうと、ルールがある以上、八百長ばかりではいけないことは誰にでもわかるはずなのです。西村・編集委員は、無能なのでしょう。


(2) asahi.com:2011年2月20日18時30分

八百長調査 私なら…「告訴を」「内部告発促す方策を」
2011年2月20日18時30分

 「ウミを出し切る」と日本相撲協会の放駒理事長が言い切った八百長問題。だが弁護士ら外部識者を集めた特別調査委員会によっても新事実はなかなか見えず、真相解明は遠い印象だ。「徹底調査」をいうのなら、ほかの手段も考えた方がよくないか。

 「相撲協会は『偽計業務妨害』容疑で警視庁に告訴し、捜査に委ねた方がいい」。元東京地検特捜部副部長の若狭勝弁護士はこう提案する。

 八百長問題は力士らの野球賭博事件を警視庁が捜査する中で発覚した。しかし「合法的な賭け事」の対象ではない相撲は、八百長を取り締まる法律がない。警視庁が立件できないのはこのためだ。

 だが「八百長という不正行為で相撲協会の業務が妨害された」ととらえれば、被害を受けた協会から警察に捜査を求めることができる――これが若狭氏の指摘だ。(以下、省略)」


「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)でも触れたことですが、朝日新聞も、八百長については、警察としては業務妨害罪の立件は困難だと判断して、マスコミにリークしたことは知っているはずです。

ところが、元検事の若狭氏に「相撲協会は『偽計業務妨害』容疑で警視庁に告訴し、捜査に委ねた方がいい」などと言わせ、それを記事にするのです。いくら警視庁に告訴しようとも、八百長について捜査をするわけがないと分かっているのに、わざとこうした記事を掲載するのです。これは、読者に誤解を与えるものであって、妥当性を欠く記事です。

八百長は犯罪ではないのですから、捜査機関の性質上、捜査機関がこの問題で捜査を行うこと自体、許されない行為です。報道機関は権力の監視の役目があるからこそ、報道の自由が保障されているのですから、捜査機関による捜査を奨励するような記事は、報道機関としての役割を放棄するものです。


(3) 毎日新聞 2011年2月20日 東京朝刊

社説:相撲界組織改革 八百長根絶が前提だ

 大相撲が野球賭博事件で大揺れしていた昨年7月、日本相撲協会の改革を目指して設置された「ガバナンス(組織の統治)の整備に関する独立委員会」(奥島孝康座長)が17日、協会改革案を答申した。

 A4判で50ページ近くに及ぶ答申書につけられたタイトルは「日本相撲協会の公益法人化へ向けての改善策」。2年後の11月に申請期限が迫った新しい公益法人制度への移行をにらみ、認可に不可欠な組織改革を盛り込んだ。(中略)

 八百長相撲は大相撲の根幹を揺るがす不正行為だ。八百長相撲に対する厳罰規定を作り、その徹底的な排除と具体的な再発防止策を協会が示さない限り、相撲協会の「公益法人化」は絵空事に終わる。(中略)

 一握りの力士出身者が協会を切り盛りし、外部の声を遮断している間に八百長相撲が巣くってしまった。大相撲も時代の要請に応える組織に変わらなければ生き残ることはできない。それこそが全国の相撲ファンの期待に応える唯一の道だ。

毎日新聞 2011年2月20日 東京朝刊」


「八百長相撲は大相撲の根幹を揺るがす不正行為だ」としていますが、その根拠は何なのでしょう。どんな事柄にも不正行為はつきものです。ですから、不正行為があるからといって、「根幹を揺るがす」ことにはならないのです。

「八百長相撲に対する厳罰規定を作り、その徹底的な排除と具体的な再発防止策を協会が示さない限り、」は「相撲協会の『公益法人化』は絵空事に終わる」としています。しかし、その論理からすれば、「公益法人」にならないのであれば、八百長相撲は許されるということになってしまいます。ですが、それで本当にいいのでしょうか? 毎日新聞は、もう少し論理的に考えるべきでした。

確かに、公益法人という点がなければ、マスコミが相撲協会に対して文句をつける根拠を失ってしまいます。だから、公益法人化の問題と八百長問題を結び付けているのでしょう。しかし、公益法人化は法律上の要件を備えているかの問題(法律論)ですが、八百長問題は大相撲のルールに関わる問題(非法律論)ですから、公益法人化と八百長問題は別問題なのです。ですから、毎日新聞の社説は単なる言いがかりにすぎないのです。

「一握りの力士出身者が協会を切り盛りし、外部の声を遮断している間に八百長相撲が巣くってしまった」といいます。しかし、古来から、大相撲では八百長がありました。ですから、「一握りの力士出身者が協会を切り盛り」しているか否かを問わず、「外部の声を遮断している」かどうかを問わず、八百長はあったのです。これも、根拠のない単なる言いがかりにすぎないのです。



2.全国紙、特に、朝日新聞や毎日新聞の記者の記事を読んでいると、その感情論を煽るだけのものばかりなので、読んでいてこちらの頭がおかしくなってしまいます。そこで、真っ当な論説を2つ紹介しておきます。


(1) 毎日新聞平成23年2月19日付(土)朝刊「野坂昭如の『七転び八起き』」

連載98回・八百長問題  場所を休んではいけない

 政治は党利党略に明け暮れ、世間の関心は薄れる一方。それは当然の成り行きとしても、現在目の離せない国際情勢、例えばエジプトは30年の独裁政権が終わり、変わろうとしている。しばらく混乱は続くだろう。

 日本に対する影響はどうか。あるいは列島の住人を苦しめる大雪、噴火の自然災害の経過よりも、なお、世間の関心事として話題になっているのは大相撲八百長問題であろう。日本は平和だというより他ないのか、考えてしまう。

     *

 元来相撲は芸能である。日本に伝わる他の芸能と同様に古来五穀豊穣(ほうじょう)を願い、神に捧(ささ)げる儀式に始まる。四股は、大地が揺らがぬよう力士の頑丈な足で固めんとする所作。せり上がりは大地から命の萌(も)え出す姿。力士は土俵に足踏み入れる前、口を濯(すす)ぎ柏手(かしわで)を打って塩を撒(ま)く。神の宿る場所に穢(けが)れ多き身を運ぶ前の所作。常に浄(きよめ)を心がけるのだ。つまり相撲は日本列島固有の神事に属する。

 かつて、五穀豊穣こそ万人の願い。太陽と水の恵みを有り難いとする気持ちとともにあった。次第にその気持ちは薄れ、この薄れとともに相撲が神事から離れていったのはごく自然なことなのだろう。角界は角界で伝統の上にあぐらをかき続けてきた。

 ぼくの知る相撲と今のそれはまるで違う。子供の頃は神戸で育った。場所を観(み)られるのは地方巡業だけ。普段はもっぱらラジオである。アナウンサーの声、客席の歓声、どよめきに手に汗を握りながら聴いていた。

 記憶に残るのは、初場所後寒い時期に、神戸三ノ宮駅前で開かれた場所である。戦争の色濃くなりはじめた頃だった。義父につれられて行ったのだが、ムシロで囲まれた観客席は、子供心に粗末に見えた。

 もちろん暖をとる設備もない。寒い中、身をこごめて待っていると、土俵に力士が上がった。見ればまわし姿の力士の体全体から湯気が立っている。実に勇ましい。自分とはかけ離れた存在、大きく立派な体つき、立ち昇る湯気、ぼくは、ただただ見惚(みほ)れていた。取り組みは迫力そのもの。しかし佇(たたず)まいにはおっとりのんびりとした雰囲気があった。

 相撲の職業化が進むにつれ、醜名(しこな)も変わった。山や川、土地の名前があたり前だった昔にくらべ、突拍子もない類(たぐい)が増えた。外国人力士が登場、これに対し今も賛否あるが、角界の現状をみればこの存在抜きに語れない。日本の子供たちが取っ組み合いさえしなくなった現在、ぼくらの側に日本人横綱の不在を嘆く資格はない。子供たちから原っぱを取り上げ、喧嘩(けんか)ひとつさせない。そういう世の中にした大人がいる。

 相撲が勝負を争うようになって、興行化した。五穀豊穣の気持ちが日常から薄れ、相撲を神事から遠ざけたのは我々である。勝ち負けを争うのは格闘技として当然。1年6場所、そこへ巡業が入る。365日稽古(けいこ)ずくめ。このすべてを本気で取り組めば体が壊れてしまうだろうことは想像がつく。力士には自分の体と土俵を守るための心づかいがあって当然。それをインチキとはいわない。

 しかし八百長めいたことは昔からいわれる。同時に観る側にそれを楽しむゆとりもあった。八百長以上に力士の佇まいに敬意を表していたのだ。日本には文化、芸能を楽しみ育てる成熟した土壌があったはず。風情を味わう気持ちを誰もが持ち合わせていた。

 この度のお粗末な八百長は、やる方も攻撃する側にも子供っぽさが目立つ。相撲協会、親方、力士はいわずもがな。こっちはもともと成熟していなかった。成熟していたはずの世間はいつの頃からか、穏やかで和を尊ぶ気風が薄れ、ある日突然、ヒステリックに一つの事について激しく糾弾する気運が目立つようになったと思う。

 マスコミというものは世間を騒がせる事件なり事故が起きた場合、すぐさま正義の味方、警世家を気取るもの。つれて、各方面の諸賢人、評論家がご登場。名論卓説の雨あられ。御託を述べる。次第に世間様も「そうだ、そうだ」と同意。ぼくにしても悪者を作って自分を棚に上げる癖がついている。その上、日々平穏無事を願う。しかしそれが人間の常だろう。

     *

 それにしても、成熟したはずの日本人の良さはどうなってしまったのか。神事、国技、伝統、興行、スポーツ。ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら相撲と上手につき合ってきたのだ。日本人はいい意味であいまいさを大事にしてきた。

 島国であるということは、海に囲まれ外に逃げられない。農業、漁業の営みは個人も大事だが、村ごとにまとまって生きなければ成り立たない。何事も決めつけず、大らかに構えて、おっとりと世の中を眺める仕組みをうまく利用してきた。そこで、ゆとりや風情を楽しむ気風が生まれた。

 ぼくはこれまで、相撲にずいぶん楽しませてもらった。双葉山にはじまって、いい時代のいい相撲とつき合えた。場所を休んではいけない。続けるべきだと思っている。

 この際、徹底的に膿(うみ)を出せ、相撲界累年の悪弊を根こそぎ浄化せよとの声が広がる。果ては相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたしと、それで世間の気持ちはすっきり収まるのだろうか。いったん国技も伝統も打ち棄(す)てて、それこそ裸一貫昔ながらのおっとり相撲が蘇(よみがえ)るのなら結構だが、それには相撲界にも世間にも成熟さが求められる。 (企画・構成/信原彰夫)」




(2) 東京新聞平成23年2月22日付夕刊5面

八百長は他人ごとか? 至る所 ムラ社会の名残――星野智幸

 大相撲の八百長が発覚したとき、かつて熱烈な相撲ファンだった私も含め、おおかたの反応は「やっぱり」であった。「まさか!」という青天の霹靂(へきれき)のような驚きは、あまりなかったように思う。それを裏づけるように、共同通信が行った世論調査では、じつに76%の人が「八百長はあると思っていた」と答えている。

 私が相撲ファンになったのはもう30年以上前のことである。高校生のときにはすでに、プロレスファンの友だちと、相撲とプロレスのどちらがより八百長度が高いか、議論をした記憶があるので、相撲には八百長がつきものだとそのころから普通に言われていたのだろう。ちなみに、貴乃花の引退とともに、私は相撲ファンを辞めた。

 なぜこんなに長きにわたって、八百長はあるとみんなに思われながら、曖昧なまま八百長が続いてきたのだろうか。そのような不正が、そのにおいははっきりと感じるのにずっと放置されるということが、はたして他のプロの競技で起こりうるだろうか?

 相撲界の体質がその根本の要因であることは当然なのだが、私はそれだけではないと思っている。

 面白いことに、八百長発覚の直後、相撲が八百長ならこれも八百長だ、とさまざまな業界で指摘が相次ぐのをちらりと目にした。あるブログでは、通信周波数帯をめぐる総務省と通信業者のやりとりが八百長みたいなものだ、とたとえているのを読んだ。東京新聞の特報面には、「八百長は日本の文化?」という記事が現れた。

 同感である。八百長はじつは日本社会のいたる所に蔓延(まんえん)していると思う。この場合の「八百長」とは、例えば金の掛かった競技で心付けをもらってわざと負ける、といったケースは当てはまらない。そのような、外側の利益のために便宜を供与する取引ではなく、内側の利益のために内輪で便宜をはかりあう場合を指す。ひと言でいえば、「談合」である。

 まさに、公共事業の入札をめぐる「談合」は、日本の文化とも言えるほど、各地で普通に見られた。「天下り」などをはじめとする、官僚の人事も同じである。検察の調書や証拠偽造も、「八百長」と言って差し支えあるまい。タテマエでは公正な競争や評価によって行われているはずのことが、内輪のホンネでは、誰もが手を染めている不正の産物となっているのだ。

 相撲界を見てわかるとおり、そんなことをしても組織の利益になるどころか、むしろ命取りになる行為なのに、どこでも行われ延々と続くのはなぜなのか。それは、もはや組織の現状維持が至上命令になっているからだ。その道を取れば滅びるとわかっていても、築きあげられた慣習と今現在の自分たちの利益を守ることが優先され、そのために内輪で協力しあう。だから、内輪では分け合うけれど、新参者は締め出す傾向が強い。

 これはいわゆるムラ社会の論理である。日本社会は、そのような小さなムラ社会がたくさん集まって構成されていた。だが、バブル期以降、ムラ社会は次々と崩壊している。ムラ社会のボスだった自民党の政治が崩れ落ちたのは、その象徴だろう。

 以降、もはや談合的な不正は許されなくなった。政権交代で期待されたのも、そのような古くから惰性で続いている無意味で益のない不透明な馴(な)れあいを排して、新しい公正さを打ち立てることだっただろう。ひいてはそれが、ムラ社会を近代市民社会へ再編することにつながるはずだったろう。

 そのような変化を察知できず、自ら手を打つことができなかった相撲界は、自壊しつつある。だが、それでも何十年にもわたって八百長疑惑が曖昧であり続けられたのは、日本社会自体が八百長体質を持っていたからではないのか。そして、民主党政権が透明な公正さの体制を実現できずにいるのも、当の民主党を含め、この社会にはまだまだ八百長体質が残っているからではないのだろうか。
 
 (ほしの・ともゆき=作家)」




3.(1) 大相撲では昔から八百長はありました。ですが、八百長は大相撲に限らず、日本社会自体が八百長をしてきた体質があったのです。
 

 「八百長はじつは日本社会のいたる所に蔓延(まんえん)していると思う。この場合の「八百長」とは、例えば金の掛かった競技で心付けをもらってわざと負ける、といったケースは当てはまらない。そのような、外側の利益のために便宜を供与する取引ではなく、内側の利益のために内輪で便宜をはかりあう場合を指す。ひと言でいえば、「談合」である。(中略)
 何十年にもわたって八百長疑惑が曖昧であり続けられたのは、日本社会自体が八百長体質を持っていたからではないのか。そして、民主党政権が透明な公正さの体制を実現できずにいるのも、当の民主党を含め、この社会にはまだまだ八百長体質が残っているからではないのだろうか。」(東京新聞平成23年2月22日付夕刊5面)

 
 

 「日本には昔から、こうした出来レース的な文化が潜んでいる。裏口入学、入札談合、縁故採用、強いて言えば就職試験の際の指定校制度なども、八百長と言えるだろう。公正な競争とは言えないからだ。こうしたことが厳然と存在しながら、見過ごされているのが日本の社会である。なんでいまさら大相撲の八百長程度で騒がれなくてはいけないのか。」(サンパウロ新聞)


マスコミだって、八百長と無関係ではありません。いくら無実であろうとも、そして、捜査官しか知らない情報であってもなぜか報道され、また、否認しているのに、なぜか、自白したような報道が流されたりするのです。被疑者や弁護人にとっては、こうした虚偽報道による世論の処罰感情を煽る行為は、絶対に許しがたいのです。

捜査機関による捜査情報のリークがあり、それを記事にしていることは、刑事弁護を知る者であれば、誰もが実体験として知っていることです。全国紙(朝日、毎日、読売)は否定していますが、そんな戯言を信じる者は、よほどの馬鹿だけです。これも、捜査機関とマスコミが一体となった「八百長」というしかありません。


(2) こうした八百長体質の日本社会を許容してきたことも関係あるのでしょうが、「成熟していた世間」があったからこそ、大相撲での八百長を許してきたのです。
 

 「この度のお粗末な八百長は、やる方も攻撃する側にも子供っぽさが目立つ。相撲協会、親方、力士はいわずもがな。こっちはもともと成熟していなかった。成熟していたはずの世間はいつの頃からか、穏やかで和を尊ぶ気風が薄れ、ある日突然、ヒステリックに一つの事について激しく糾弾する気運が目立つようになったと思う。
 マスコミというものは世間を騒がせる事件なり事故が起きた場合、すぐさま正義の味方、警世家を気取るもの。つれて、各方面の諸賢人、評論家がご登場。名論卓説の雨あられ。御託を述べる。次第に世間様も「そうだ、そうだ」と同意。ぼくにしても悪者を作って自分を棚に上げる癖がついている。その上、日々平穏無事を願う。しかしそれが人間の常だろう。
     *
 それにしても、成熟したはずの日本人の良さはどうなってしまったのか。神事、国技、伝統、興行、スポーツ。ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら相撲と上手につき合ってきたのだ。日本人はいい意味であいまいさを大事にしてきた。
 島国であるということは、海に囲まれ外に逃げられない。農業、漁業の営みは個人も大事だが、村ごとにまとまって生きなければ成り立たない。何事も決めつけず、大らかに構えて、おっとりと世の中を眺める仕組みをうまく利用してきた。そこで、ゆとりや風情を楽しむ気風が生まれた。
 ぼくはこれまで、相撲にずいぶん楽しませてもらった。双葉山にはじまって、いい時代のいい相撲とつき合えた。場所を休んではいけない。続けるべきだと思っている。
 この際、徹底的に膿(うみ)を出せ、相撲界累年の悪弊を根こそぎ浄化せよとの声が広がる果ては相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたしと、それで世間の気持ちはすっきり収まるのだろうか。いったん国技も伝統も打ち棄(す)てて、それこそ裸一貫昔ながらのおっとり相撲が蘇(よみがえ)るのなら結構だが、それには相撲界にも世間にも成熟さが求められる。」(毎日新聞平成23年2月19日付朝刊「野坂昭如の『七転び八起き』」)


八百長が犯罪であれば、問題視することにも十分な理由があるでしょう。しかし、大相撲では八百長は昔からあることであって、八百長は犯罪ではないのです。それをなぜか、ある日突然、ヒステリックに(八百長問題を)激しく糾弾し始め、言いがかりのような屁理屈を連ねるのです。まったく不思議でなりません。


(3) 最後に。

 「「本場所無期限中止」に娘、涙――60代・福島県須賀川市

 34歳のダウン症の娘は小さい頃から大相撲が大好きです。
 小学生の頃、力士の「しこ名」に興味を持ってから漢字にも関心を持ち、難しい「しこ名」を書いたり、出身地、生年月日なども覚えてびっくりさせられたものでした。相撲の巡業や催し物があれば一緒に必ず見に行ったり、両国国技館にも行きました。
 最近は体力の衰えが出てきたせいか、出掛けたりはできませんが、鉛筆を片手に、新聞に勝ち負けを書き込みながら、テレビ中継を楽しんでします。
 しかし、今回の「本場所無期限中止」のニュースに、多くの言葉を語れない娘は「お相撲」と書いてポロポロ涙を流して泣いています。(以下、省略)」(毎日新聞平成23年2月22日付朝刊15面「みんなの広場」)


 「大相撲八百長問題でコロニアにも衝撃
11/02/09 (10:12)

「春場所中止は厳しすぎる」 残念な結果に落胆・不満の声

 日本の報道によると、大相撲の八百長問題で日本相撲協会が6日に開いた臨時理事会で、3月13日から大阪府立体育会館で予定されていた春場所の中止を正式に決定したという。このニュースは、日系社会にも大きなショックを与え、特にNHK国際放送での相撲観戦を楽しみにしているファンからは「八百長はいけないことだが、ちょっと、厳しすぎるのでは」と不満の声も上がっている。」(サンパウロ新聞)


何度も書きますが、大相撲では八百長は犯罪ではなく、八百長が蔓延しているとの確たる証拠はないのです。それなのに、マスコミは、相撲協会に対して本場所中止を強要し、本場所開催についてのめどが立っていません。

そうした無責任なマスコミの対応により、大相撲により生計を営んでいる多くの市民、大相撲を楽しみにしている国内外の多くの市民に害を与えたのです。マスコミは、「『お相撲』と書いてポロポロ涙を流して泣いて」いる女性に対して、どのように責任をとるのでしょうか。本場所中止に落胆している海外の相撲ファンに対して、どのように責任をとるのでしょうか。マスコミは、こうした市民に対して、どのように(金銭的な)責任を取るのでしょうか

無実を叫ぶ者であろうとも有罪視した報道を行い、後に無罪となっても、言い訳をするばかりの全国紙は、今回も、相撲協会の責任であると責任転嫁を行い、ただ、「八百長はいけない、徹底解明を」と感情的に叫ぶだけなのです。

私たち市民は、大相撲とは何かについて正しい認識を行い、相撲協会への批判よりも、多くの害を撒き散らしている全国紙への批判を行うべきなのです。そうでないと、「相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたし」ということになりかねないのですから。


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【2011/02/23 01:29】 | 諸法
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rice_shower
http://www.videonews.com/interviews/001999/001673.php
こういう視座の提供こそが、ジャーナリズムの役割なのですがね。



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