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主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
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大相撲の八百長問題で危機に立つ日本相撲協会(放駒理事長=元大関魁傑)は平成23年2月6日午前、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、3月13日から大阪府立体育会館で予定されていた春場所の中止を正式に決めました。本場所中止は、戦争で被災した旧国技館の改修が遅れた1946年夏場所以来65年ぶり2度目で、不祥事では初となります(時事通信:2011/02/06-13:19)。

この決定は、大相撲により生計を立てていた多くの市民に対して回復し難い経済的な打撃を与え、体が自由に動かないためテレビでの大相撲観戦を心の拠り所としていたご高齢の方などへ大きな精神的な打撃となることが予測されます。散々、大相撲を批判していた全国紙(朝日、読売、毎日)や菅直人一派は、これらの市民の被害に対して何も保障するわけがなく、ただ、批判をして終わるだけなのです。


この「大相撲・八百長疑惑」問題については、「大相撲・八百長問題~八百長を処罰する規定はあるのか?」(2011/02/04 21:27)で一度触れましたが、もう一度触れてみたいと思います。



1.朝日新聞平成23年2月3日付夕刊11面

「力士はカネでどうにでもなる」暴力団関係者の「常識」
2011年2月3日15時2分

 「相撲で八百長が行われているのは私らの世界では常識だ」。大相撲の取組を賭けの対象にする賭博にかかわっているという複数の暴力団関係者は、そう証言する。接近を試みた力士に普段から酒食でもてなして関係をつくり、仕掛けたい一番の前に不正を依頼する、というやり方だ。今回明らかになった疑惑の構図や動機はまだ明らかではないが、暴力団関係者らは「力士はカネでどうにでもなるというのも私らの常識」と言う。

 相撲賭博は、多くの暴力団組織が「手軽な資金集め」として重宝しているという。サイコロ二つの目の合計が奇数か偶数かを賭ける「丁半ばくち」と同じように単純に力士の勝ち負けを予想するだけで、客には人気がある。

 多くの場合、客からの注文取りは取組一番ごとに行い、締め切りは取組の直前までとしている。力士が四股を踏んでいるときに携帯電話で「どっちにする?」と聞く。賭けの対象は、番付最下位の序ノ口から最高位の横綱まですべての力士の取組だ。

 賭け金は、1万円の客もいれば10万円張る客もいる。賭博を仕切る胴元は勝った客、負けた客の双方から賭け金の1割を取る。精算は末端の組員に担わせる。負けた客のところには回収に出向き、勝った客は組員のアパートなどに呼んで支払う。1日の取組で約300万円が動くが、胴元が損をすることはない。精算役の組員には「逮捕されても胴元の名や組織のことは絶対に明かすな」と言い含めているという。

 のめり込んだ末に数百万円負ける客もいる。「何とかならないか」と胴元側に泣きついてくる。ここから八百長の仕掛けが始まる。暴力団関係者が、日頃から手なずけている力士に、客を居酒屋などで引き合わせる。客が力士に「あすは勝ってくれよ」「必ず負けろよ」と頼む。聞き入れてくれたら数十万円出す、と約束する。「簡単に応じる力士は少なくない」と暴力団関係者は話す。

 一方で、別の暴力団関係者は「現役の力士からは『賭博と関係なく八百長を行うこともある』と聞いた」という。負け越しの危機に直面した力士が、地位陥落を免れるため対戦相手に負けるよう頼む。そんなことが珍しくない、と懇意の力士は明かしたという。(編集委員・緒方健二)」(*紙面(3版)での表題は「『相撲で八百長 常識』暴力団関係者」



緒方健二・編集委員は、(親密な関係にある?)暴力団関係者の言葉をひいて「相撲で八百長が行われているのは私らの世界では常識だ」という署名記事を出しています。こうした意識は、大相撲の歴史に詳しい方や長年の大相撲ファンであれば、確実な証拠の有無はともかく、通常の認識であるはずです。(ただ、暴力団関係者の言葉は、真実性の相当の根拠があるのか、真実であるとしてもこの暴力団関係者とはどういう関係なのか、多くの疑問がありますが。)

(1) これに対して、素人さんの意識丸出しなのは、西村欣也・編集委員による署名記事です。

スポーツとは認めぬ

 国技といわれてきた大相撲は果たしてスポーツとして成立していたのだろうか。今回の八百長疑惑は日本相撲協会に根源的な問題を突きつけている。

 人々はスポーツに何を求めているのか。フェアネス(公正性)を根源に置いた感動だ。アスリート(選手)がフェアに戦い、全力を尽くして勝敗を争うからこそ、見る者の心は動く。五輪も、サッカーワールドカップも、プロ野球も、高校野球も、だからこそ多くのファンの支持を得ている。

 もし、そこに八百長がからんでいるとすれば、それはスポーツとは呼ばない。ただの興行であり、ショーである。(中略)

 野球賭博問題が発覚した時は早々と幕引きを図り、本場所の開催を強行した。しかし、八百長はスポーツの根幹にかかわる問題だ。徹底的な解明がはかられるまで、ファンは大相撲をスポーツとして認めない。」


西村・編集委員によれば、「<1>大相撲は(議論の余地なく)興行ではなくスポーツであって、<2>スポーツである大相撲では、八百長は決して認めない」というわけです。(なお、「人々はスポーツに何を求めているのか。フェアネス(公正性)を根源に置いた感動だ」という記述は、岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(ダイヤモンド社、2009年)からの盗用(良く言えば『ネタ元』)と思われる。)


(2) しかし、本当に、大相撲はスポーツなのでしょうか。西村・編集委員の論説に対して、緒方・編集委員は同日付夕刊において、「昔から相撲では八百長があるのは常識である」と真っ向から反論しています。はっきりいえば、緒方・編集委員からすれば、「西村は、大相撲について無知であって、常識知らずだ。」と、批判をしているわけです。暴力団関係者が賭博として関係をもつことができるということは、当然ながら、「相撲は興行である」という面があるからで、西村・編集委員の論説もまた、「相撲は興行である」ということが前提ということでしょう。

そもそも、親方や力士など大相撲一行が地方で行う「巡業」は、まさに「興行」そのものなのです。

(国語)じゅんぎょう ―【巡業】 (三省堂「大辞林 第二版」より)
(名)スル
いろいろな土地をまわり、各地で興行すること。
「地方を―する」」


大相撲は、年に何度も「興行」を行っているのに、本場所は「興行ではなくてスポーツである」という区分けができるのでしょうか。

西村・編集委員は、もし本物のスポーツ記者であれば、「大相撲には八百長があること」は十分に知っていたはずで、大相撲は興行の面が多分にあることは十分に知っていたはずですが、こうした虚偽の記事を書くくらいですから、西村・編集委員は本物のスポーツ記者ではなく、無能なのでしょう。 だからこそ、西村欣也・編集委員が署名入りで「実質的な訂正記事」を出したわけです。



2.では、相撲は、西村欣也・編集員が当然のように思っているように「スポーツ」なのでしょうか? それとも「興行」なのでしょうか? また、大相撲で行われている八百長は、決して許されないものなのでしょうか? それとも、日本の文化なのでしょうか? この点について、東京新聞が「こちら特報部」において記事にしていましたので、紹介してみたいと思います。


(1) 東京新聞平成23年2月5日付朝刊22・23面【こちら特報部】

八百長は日本の文化? 相撲と切れぬ縁
2011年2月5日

 力士たちが交わした携帯メールの“動かぬ証拠”から、大相撲の八百長問題が明るみに出たが、これまでも疑惑はたびたび浮上。「やっぱりね」「まん延しているのでは」-。いまさらの感をぬぐえない人も多いのではないか。大相撲に限らず、野球やサッカーなどのプロスポーツでも八百長事件は相次いでいる。真剣勝負なのか、見せ物なのか。フェアプレーに線引きはあるのか。スポーツと興行の境目を考えてみた。 (篠ケ瀬祐司、秦淳哉)

■隠岐の伝統行事 禍根残さぬ“人情取組”

 八百長と相撲とは何かと縁がある。そもそも語源が相撲がらみなのだ。

 「広辞苑」や「大辞林」などによると、明治時代に八百屋の長兵衛(通称「八百長」)が、商売の便宜を図ってもらおうと、相撲の年寄(親方)と碁を打つ際、常に一勝一敗になるように手加減していた。そこで真剣勝負にみせて、打ち合わせ通り勝負をつける意味に使われるようになったという。

 伝統行事では、勝ちを譲る風習もみられる。

 島根県隠岐の島町に古くから伝わる「隠岐古典相撲」。二人の力士が二番続けて取り組み、一番目に勝った力士が、二番目はわざと負け、対戦成績を引き分けにする。「その後の地域の付き合いもあるので、禍根を残さないようにする」(隠岐の島町観光商工課)ための知恵で、「人情相撲」と呼ばれている。

 大相撲では、しばしば八百長疑惑が持ち上がった。

 1963年、石原慎太郎・現東京都知事が、スポーツ紙で柏戸と大鵬の横綱全勝対決は八百長だと語った。96年には、元大鳴戸親方(元関脇高鉄山)が週刊誌で八百長疑惑を告白。2000年にも元小結の板井圭介氏が、日本外国特派員協会などで八百長の存在を告発した。07年にも週刊誌が横綱朝青龍らの八百長疑惑を報道。日本相撲協会が名誉毀損(きそん)で提訴し、10年に協会側の勝訴が確定している。

 相撲以外のスポーツでも、八百長問題は頻繁に起きている。一例を挙げると、プロ野球で69年に発覚した「黒い霧事件」で、野球賭博に関与したとして、元西鉄の池永正明投手らが永久追放された(池永氏は05年に処分解除)。台湾球界の八百長事件でも、球団「兄弟」監督だった元阪神の中込伸投手が昨年、有罪判決を受けた。

 欧州サッカー界では05年、イタリアの古豪ジェノアが最終戦で1部リーグ(セリエA)への復帰を決めたが、八百長発覚で3部へ降格処分に。06年には名門ユベントスの幹部が審判に圧力をかけた八百長事件で2部へ降格処分となった。

 日本のプロ野球協約では「故意に敗れ、または敗れることを試み、あるいは勝つための最善の努力を怠ること」を不正行為として禁止。違反した場合は永久追放との明文規定がある。サッカーのJリーグ規約も「選手、監督、コーチは試合の結果に影響を及ぼす恐れのある不正行為に一切関与してはならない」とし、違反の場合はチームの除名や選手の出場権剥奪などの処分が科される。

 公営ギャンブルでは競馬、競輪、競艇ごとに個別の法律で不正行為を禁止しており、違反した場合は刑事罰の対象。スポーツの世界では八百長の禁止が常識だ。しかし、大相撲の場合は、日本相撲協会が「無気力相撲の懲罰規定」を設けているが、八百長は存在しないとしてきた。

■興行と境目なし プロスポーツの隆盛

 スポーツと興行の境目は何だろうか。

 「境目はない。グラデーション(段階的変化)だ」と、あいまいさを指摘するのはスポーツライターの玉木正之氏。「たとえばサッカーはスポーツの側面が強いが、ゴールを決めた選手のパフォーマンスなど興行的な行為も許される。プロレスはほとんど興行でも、スポーツの要素がないわけではない」。大相撲は両者の中間にあり「サッカーよりは興行面が濃く、プロレスよりはスポーツ的だ」という。

 力士はアスリート(競技者)と呼べるのか。「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手だ」として、別の存在とみる。その上で「力士にはオリンピック選手とは別の、相撲なりのフェアプレーが大切になる。例えば立ち合いでは目と目を合わせ、気合いがあった時に立つ。西洋生まれのスポーツは始めから相手のすきを突こうとする。相撲は相撲のままでいい」。

 玉木氏は、今回の八百長問題に社会の変化を感じている。「七勝七敗の力士が千秋楽に勝ち越すのは『人情相撲』といわれてきた。もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題だが…。社会が大相撲にスポーツ面を求め過ぎて、興行面のあうんの呼吸に理解をなくしているようだ」

 「八百長は日本の文化。江戸時代からあった」と話すのは生沼芳弘東海大教授(スポーツ社会学)。「日本に近代スポーツが入る前、フェアプレーの概念がない時代には、相手が十両から落ちると分かれば負けてやるのが人情だった。何事も情で動く側面が昔からある」と分析する。

 さらに「相撲トーナメントのような花相撲では、力士は本気で戦わない。本割でもないのにけがすれば大変だからだ。これは八百長と変わらない」とも。

■欧米倫理 厳しい目も

 一方で、日本でも欧米スポーツが盛んになり、人々は八百長を許せなくなったとみる。「欧米のスポーツには公正な倫理観があるため、ドーピング検査も徹底的にやる。七勝七敗の力士と六勝八敗の力士が当たると、前者が八割の確率で勝つとする研究があったが、調査したのは日本人ではなく米国の経済学者。欧米には日本のようなおおらかさがない」と指摘。

 生沼氏は「スポーツが無慈悲でドライになったといえるが、社会の変化に相撲界が気が付いていない。経済的に苦しい時代を乗り越えて財団法人になったのに、あぐらをかいている」と日本相撲協会を批判する。

 慈恵医大相撲部の富家孝総監督は「スポーツも興行の一種。相撲の八百長も、これまで口約束や現金払いで済ましていたが、インターネットやメールの発達で表面化しただけ」とみる。

 新日本プロレスのリングドクターの経験もある富家氏は、プロレスと相撲の違いについて「プロレスは虚と実の間にあるスポーツ。観客はすべてを踏まえた上でエンターテイメントとして見ている」と指摘。

 相撲については「財団法人としての税制の優遇を受け、天皇陛下も観戦する大相撲の八百長にはファンも失望する。同じ犯罪でも、民間人より公務員が起こせば非難されるのと同じだ。税金で面倒をみてもらっているスポーツは倫理観がなければいけない」と苦言を呈する。

 ただ、富家氏は、相撲にはほかのスポーツにはない利点、守るべき文化があると強調する。「相撲界は平等の社会。弟子入りすれば誰でも土俵に上がれるし、星を挙げれば上の地位に進むこともできる。監督の戦術に合わずに出場機会がない野球やサッカーなどの選手とは大きな違いだ」

<デスクメモ>

 「負けるが勝ち」とは、争おうとはせず一時的に負けても、最終的には勝つことになるという意味だ。子どものころ運動会や競技会で負けるたびに使わせてもらったセリフだが、最終的に勝った覚えは一度もない。ただ、勝利を相手に譲る行為は何とも美しい。金銭のやりとりが伴えばブーイングだけど。(立)」

 

 
(2) この記事には、相撲は興行の面が強いことが指摘されています。

 「スポーツと興行の境目は何だろうか。

 「境目はない。グラデーション(段階的変化)だ」と、あいまいさを指摘するのはスポーツライターの玉木正之氏。「たとえばサッカーはスポーツの側面が強いが、ゴールを決めた選手のパフォーマンスなど興行的な行為も許される。プロレスはほとんど興行でも、スポーツの要素がないわけではない」。大相撲は両者の中間にあり「サッカーよりは興行面が濃く、プロレスよりはスポーツ的だ」という。

 力士はアスリート(競技者)と呼べるのか。「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手だ」として、別の存在とみる。その上で「力士にはオリンピック選手とは別の、相撲なりのフェアプレーが大切になる。例えば立ち合いでは目と目を合わせ、気合いがあった時に立つ。西洋生まれのスポーツは始めから相手のすきを突こうとする。相撲は相撲のままでいい」。

 玉木氏は、今回の八百長問題に社会の変化を感じている。「七勝七敗の力士が千秋楽に勝ち越すのは『人情相撲』といわれてきた。もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題だが…。社会が大相撲にスポーツ面を求め過ぎて、興行面のあうんの呼吸に理解をなくしているようだ」」


相撲では、相撲の取り組み毎に懸賞金が掛けられています。こうした懸賞金は、明確に金のやり取りがあることをあからさまに行っているわけで、これは相撲の取り組みは商売・興行の面があることを示しており、純粋なスポーツではないことを示しています。

また、大相撲で行われている弓取式(ゆみとりしき)、すなわち、「大相撲の本場所で結びの一番の勝者に代わり作法を心得た 力士が土俵上で弓を受け、勝者の舞を演ずること」は、大相撲では、力士が相撲の取り組み以外のことを行うことを当然視しているわけです。これは、観客に対して、大相撲は「興行」であることを明確に示しているのではないでしょうか。競技者が踊りを披露することが、競技内容とは別に要求されるにようなスポーツが、他のどこにあるというのでしょうか。

さらにいえば巡業の一環として、伊勢神宮や靖国神社で「奉納大相撲」が行われますが、これは相撲が神道に基づいた神事であるからこそ行うわけです。日本でなされているスポーツにおいて、「神事」とされ、「奉納」しているスポーツが、相撲以外のどのスポーツにあるというのでしょうか。相撲は、伝統的に「神事」の面があるのにどうして純粋なスポーツなどといえるのでしょうか。

「奉納大相撲」でも明らかなように、「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手」なのですから、力士はアスリート(競技者)ではないのです。

ですから、相撲は、興行面が強いという評価は当然なのです。西村欣也・朝日新聞編集委員が言うような「大相撲は興行ではなくスポーツである」という認識は、全く間違っているのです。



(3) 大相撲の八百長は日本の文化であるという指摘もされています。
 

 「八百長は日本の文化江戸時代からあった」と話すのは生沼芳弘東海大教授(スポーツ社会学)。「日本に近代スポーツが入る前、フェアプレーの概念がない時代には、相手が十両から落ちると分かれば負けてやるのが人情だった。何事も情で動く側面が昔からある」と分析する。

 さらに「相撲トーナメントのような花相撲では、力士は本気で戦わない。本割でもないのにけがすれば大変だからだ。これは八百長と変わらない」とも。」


相撲をよく知れば知るほど「八百長は日本の文化。江戸時代からあった」ということが分かります。そうなれば、相撲の八百長はこうした長い伝統に裏打ちされたものである以上、力士の間では八百長をするか否かのハードルは低くなってくるわけです。

また、相撲は、興行の面が強いのだとすれば、力士の競技生命・生計を維持し、興行として長く興行成績をあげるためには八百長がありうるわけで、八百長は暗黙の了解ということになってきます。

すべての取り組みが八百長というわけではないことは誰もが分かります。しかし、そのうち、幾つかの取り組みにおいて「人情相撲」があり得るというわけなのです。

ですから、西村欣也・朝日新聞編集委員が言うような「スポーツである大相撲では、八百長は決して認めない」という認識は、全く間違っているのです。記事にあるように八百長の「語源が相撲がらみ」であることからしても、西村・編集委員の認識が間違っていることが分かるはずです。




3.最後に。

大相撲は、興行の面が強く八百長もあり得ることは、前々から分かっていたことです。

もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題なのでしょうが、そうした情報にはなっていないのですから、いまさら八百長疑惑を報道するようなことでもないはずです。マスコミは、朝青竜の言動に対しては、スポーツと異なる精神性を求めて批判しておきながら、八百長疑惑問題では、一転して、スポーツ性を強調して批判するのですから、実にいい加減です。

しかし、なぜ、全国紙などはあたかも今八百長を知ったかのように、激しく批判をするのでしょうかそれよりまして、なぜ、今、警察関係者は八百長の存在を報道関係者にリークしたのでしょうか

警視庁の野球賭博事件の捜査で浮かんだメールが八百長疑惑の証拠なのですから(昨年の7月に力士の携帯電話などを押収)、昨年の夏には分かっていたことなのです。なぜ、わざわざ春場所の直前になってから、捜査機関は、リークしてマスコミを藁人形のように動かし、過剰に煽らせ、重大問題であるかのように問題視させる必要があるのでしょうか。(捜査機関側の意図は、「2011/02/05(Sat) 16:04付のrice_showerさんのコメント」を参照。

また、なぜ、国会開会後、無知無能な菅政権が立ち往生している時期に、わざわざ、市民の目を逸らすような「馬鹿馬鹿しい情報」を流して、菅直人一派の延命を図るようなことをするのでしょうか。今、国会では、全国民に影響する問題を処理することが求められているのにも関わらず、相撲の八百長問題を取り上げ糾弾するような馬鹿な閣僚ばかりなのです。(それを大きく取り上げる朝日新聞などの全国紙は、当然ながら、「菅直人一派の延命」を画策する意図があるわけです。)

私たち市民は、相変わらずの捜査情報リークに基づいた「八百長疑惑報道」や「ウソ記事」に惑わされることなく、捜査関係者の意図や、国民の目を逸らそうとしている菅直人一派の言動に、厳しい目を向けるべきなのです。

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2.では、相撲は、西村欣也・編集員が当然のように思っているように「スポーツ」なのでしょうか? それとも「興行」なのでしょうか? また、大相撲で行われている八百長は、決して許されないものなのでしょうか? それとも、日本の文化なのでしょうか? この点について、東京新聞が「こちら特報部」において記事にしていましたので、紹介してみたいと思います。


(1) 東京新聞平成23年2月5日付朝刊22・23面【こちら特報部】

八百長は日本の文化? 相撲と切れぬ縁
2011年2月5日

 力士たちが交わした携帯メールの“動かぬ証拠”から、大相撲の八百長問題が明るみに出たが、これまでも疑惑はたびたび浮上。「やっぱりね」「まん延しているのでは」-。いまさらの感をぬぐえない人も多いのではないか。大相撲に限らず、野球やサッカーなどのプロスポーツでも八百長事件は相次いでいる。真剣勝負なのか、見せ物なのか。フェアプレーに線引きはあるのか。スポーツと興行の境目を考えてみた。 (篠ケ瀬祐司、秦淳哉)

■隠岐の伝統行事 禍根残さぬ“人情取組”

 八百長と相撲とは何かと縁がある。そもそも語源が相撲がらみなのだ。

 「広辞苑」や「大辞林」などによると、明治時代に八百屋の長兵衛(通称「八百長」)が、商売の便宜を図ってもらおうと、相撲の年寄(親方)と碁を打つ際、常に一勝一敗になるように手加減していた。そこで真剣勝負にみせて、打ち合わせ通り勝負をつける意味に使われるようになったという。

 伝統行事では、勝ちを譲る風習もみられる。

 島根県隠岐の島町に古くから伝わる「隠岐古典相撲」。二人の力士が二番続けて取り組み、一番目に勝った力士が、二番目はわざと負け、対戦成績を引き分けにする。「その後の地域の付き合いもあるので、禍根を残さないようにする」(隠岐の島町観光商工課)ための知恵で、「人情相撲」と呼ばれている。

 大相撲では、しばしば八百長疑惑が持ち上がった。

 1963年、石原慎太郎・現東京都知事が、スポーツ紙で柏戸と大鵬の横綱全勝対決は八百長だと語った。96年には、元大鳴戸親方(元関脇高鉄山)が週刊誌で八百長疑惑を告白。2000年にも元小結の板井圭介氏が、日本外国特派員協会などで八百長の存在を告発した。07年にも週刊誌が横綱朝青龍らの八百長疑惑を報道。日本相撲協会が名誉毀損(きそん)で提訴し、10年に協会側の勝訴が確定している。

 相撲以外のスポーツでも、八百長問題は頻繁に起きている。一例を挙げると、プロ野球で69年に発覚した「黒い霧事件」で、野球賭博に関与したとして、元西鉄の池永正明投手らが永久追放された(池永氏は05年に処分解除)。台湾球界の八百長事件でも、球団「兄弟」監督だった元阪神の中込伸投手が昨年、有罪判決を受けた。

 欧州サッカー界では05年、イタリアの古豪ジェノアが最終戦で1部リーグ(セリエA)への復帰を決めたが、八百長発覚で3部へ降格処分に。06年には名門ユベントスの幹部が審判に圧力をかけた八百長事件で2部へ降格処分となった。

 日本のプロ野球協約では「故意に敗れ、または敗れることを試み、あるいは勝つための最善の努力を怠ること」を不正行為として禁止。違反した場合は永久追放との明文規定がある。サッカーのJリーグ規約も「選手、監督、コーチは試合の結果に影響を及ぼす恐れのある不正行為に一切関与してはならない」とし、違反の場合はチームの除名や選手の出場権剥奪などの処分が科される。

 公営ギャンブルでは競馬、競輪、競艇ごとに個別の法律で不正行為を禁止しており、違反した場合は刑事罰の対象。スポーツの世界では八百長の禁止が常識だ。しかし、大相撲の場合は、日本相撲協会が「無気力相撲の懲罰規定」を設けているが、八百長は存在しないとしてきた。

■興行と境目なし プロスポーツの隆盛

 スポーツと興行の境目は何だろうか。

 「境目はない。グラデーション(段階的変化)だ」と、あいまいさを指摘するのはスポーツライターの玉木正之氏。「たとえばサッカーはスポーツの側面が強いが、ゴールを決めた選手のパフォーマンスなど興行的な行為も許される。プロレスはほとんど興行でも、スポーツの要素がないわけではない」。大相撲は両者の中間にあり「サッカーよりは興行面が濃く、プロレスよりはスポーツ的だ」という。

 力士はアスリート(競技者)と呼べるのか。「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手だ」として、別の存在とみる。その上で「力士にはオリンピック選手とは別の、相撲なりのフェアプレーが大切になる。例えば立ち合いでは目と目を合わせ、気合いがあった時に立つ。西洋生まれのスポーツは始めから相手のすきを突こうとする。相撲は相撲のままでいい」。

 玉木氏は、今回の八百長問題に社会の変化を感じている。「七勝七敗の力士が千秋楽に勝ち越すのは『人情相撲』といわれてきた。もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題だが…。社会が大相撲にスポーツ面を求め過ぎて、興行面のあうんの呼吸に理解をなくしているようだ」

 「八百長は日本の文化。江戸時代からあった」と話すのは生沼芳弘東海大教授(スポーツ社会学)。「日本に近代スポーツが入る前、フェアプレーの概念がない時代には、相手が十両から落ちると分かれば負けてやるのが人情だった。何事も情で動く側面が昔からある」と分析する。

 さらに「相撲トーナメントのような花相撲では、力士は本気で戦わない。本割でもないのにけがすれば大変だからだ。これは八百長と変わらない」とも。

■欧米倫理 厳しい目も

 一方で、日本でも欧米スポーツが盛んになり、人々は八百長を許せなくなったとみる。「欧米のスポーツには公正な倫理観があるため、ドーピング検査も徹底的にやる。七勝七敗の力士と六勝八敗の力士が当たると、前者が八割の確率で勝つとする研究があったが、調査したのは日本人ではなく米国の経済学者。欧米には日本のようなおおらかさがない」と指摘。

 生沼氏は「スポーツが無慈悲でドライになったといえるが、社会の変化に相撲界が気が付いていない。経済的に苦しい時代を乗り越えて財団法人になったのに、あぐらをかいている」と日本相撲協会を批判する。

 慈恵医大相撲部の富家孝総監督は「スポーツも興行の一種。相撲の八百長も、これまで口約束や現金払いで済ましていたが、インターネットやメールの発達で表面化しただけ」とみる。

 新日本プロレスのリングドクターの経験もある富家氏は、プロレスと相撲の違いについて「プロレスは虚と実の間にあるスポーツ。観客はすべてを踏まえた上でエンターテイメントとして見ている」と指摘。

 相撲については「財団法人としての税制の優遇を受け、天皇陛下も観戦する大相撲の八百長にはファンも失望する。同じ犯罪でも、民間人より公務員が起こせば非難されるのと同じだ。税金で面倒をみてもらっているスポーツは倫理観がなければいけない」と苦言を呈する。

 ただ、富家氏は、相撲にはほかのスポーツにはない利点、守るべき文化があると強調する。「相撲界は平等の社会。弟子入りすれば誰でも土俵に上がれるし、星を挙げれば上の地位に進むこともできる。監督の戦術に合わずに出場機会がない野球やサッカーなどの選手とは大きな違いだ」

<デスクメモ>

 「負けるが勝ち」とは、争おうとはせず一時的に負けても、最終的には勝つことになるという意味だ。子どものころ運動会や競技会で負けるたびに使わせてもらったセリフだが、最終的に勝った覚えは一度もない。ただ、勝利を相手に譲る行為は何とも美しい。金銭のやりとりが伴えばブーイングだけど。(立)」

 

 
(2) この記事には、相撲は興行の面が強いことが指摘されています。

 「スポーツと興行の境目は何だろうか。

 「境目はない。グラデーション(段階的変化)だ」と、あいまいさを指摘するのはスポーツライターの玉木正之氏。「たとえばサッカーはスポーツの側面が強いが、ゴールを決めた選手のパフォーマンスなど興行的な行為も許される。プロレスはほとんど興行でも、スポーツの要素がないわけではない」。大相撲は両者の中間にあり「サッカーよりは興行面が濃く、プロレスよりはスポーツ的だ」という。

 力士はアスリート(競技者)と呼べるのか。「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手だ」として、別の存在とみる。その上で「力士にはオリンピック選手とは別の、相撲なりのフェアプレーが大切になる。例えば立ち合いでは目と目を合わせ、気合いがあった時に立つ。西洋生まれのスポーツは始めから相手のすきを突こうとする。相撲は相撲のままでいい」。

 玉木氏は、今回の八百長問題に社会の変化を感じている。「七勝七敗の力士が千秋楽に勝ち越すのは『人情相撲』といわれてきた。もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題だが…。社会が大相撲にスポーツ面を求め過ぎて、興行面のあうんの呼吸に理解をなくしているようだ」」


相撲では、相撲の取り組み毎に懸賞金が掛けられています。こうした懸賞金は、明確に金のやり取りがあることをあからさまに行っているわけで、これは相撲の取り組みは商売・興行の面があることを示しており、純粋なスポーツではないことを示しています。

また、大相撲で行われている弓取式(ゆみとりしき)、すなわち、「大相撲の本場所で結びの一番の勝者に代わり作法を心得た 力士が土俵上で弓を受け、勝者の舞を演ずること」は、大相撲では、力士が相撲の取り組み以外のことを行うことを当然視しているわけです。これは、観客に対して、大相撲は「興行」であることを明確に示しているのではないでしょうか。競技者が踊りを披露することが、競技内容とは別に要求されるにようなスポーツが、他のどこにあるというのでしょうか。

さらにいえば巡業の一環として、伊勢神宮や靖国神社で「奉納大相撲」が行われますが、これは相撲が神道に基づいた神事であるからこそ行うわけです。日本でなされているスポーツにおいて、「神事」とされ、「奉納」しているスポーツが、相撲以外のどのスポーツにあるというのでしょうか。相撲は、伝統的に「神事」の面があるのにどうして純粋なスポーツなどといえるのでしょうか。

「奉納大相撲」でも明らかなように、「力士は相撲甚句を歌え、五穀豊穣(ほうじょう)のために大地を踏みしめる神の使い手」なのですから、力士はアスリート(競技者)ではないのです。

ですから、相撲は、興行面が強いという評価は当然なのです。西村欣也・朝日新聞編集委員が言うような「大相撲は興行ではなくスポーツである」という認識は、全く間違っているのです。



(3) 大相撲の八百長は日本の文化であるという指摘もされています。
 

 「八百長は日本の文化江戸時代からあった」と話すのは生沼芳弘東海大教授(スポーツ社会学)。「日本に近代スポーツが入る前、フェアプレーの概念がない時代には、相手が十両から落ちると分かれば負けてやるのが人情だった。何事も情で動く側面が昔からある」と分析する。

 さらに「相撲トーナメントのような花相撲では、力士は本気で戦わない。本割でもないのにけがすれば大変だからだ。これは八百長と変わらない」とも。」


相撲をよく知れば知るほど「八百長は日本の文化。江戸時代からあった」ということが分かります。そうなれば、相撲の八百長はこうした長い伝統に裏打ちされたものである以上、力士の間では八百長をするか否かのハードルは低くなってくるわけです。

また、相撲は、興行の面が強いのだとすれば、力士の競技生命・生計を維持し、興行として長く興行成績をあげるためには八百長がありうるわけで、八百長は暗黙の了解ということになってきます。

すべての取り組みが八百長というわけではないことは誰もが分かります。しかし、そのうち、幾つかの取り組みにおいて「人情相撲」があり得るというわけなのです。

ですから、西村欣也・朝日新聞編集委員が言うような「スポーツである大相撲では、八百長は決して認めない」という認識は、全く間違っているのです。記事にあるように八百長の「語源が相撲がらみ」であることからしても、西村・編集委員の認識が間違っていることが分かるはずです。




3.最後に。

大相撲は、興行の面が強く八百長もあり得ることは、前々から分かっていたことです。

もし八百長が相撲賭博につながるのなら大問題なのでしょうが、そうした情報にはなっていないのですから、いまさら八百長疑惑を報道するようなことでもないはずです。マスコミは、朝青竜の言動に対しては、スポーツと異なる精神性を求めて批判しておきながら、八百長疑惑問題では、一転して、スポーツ性を強調して批判するのですから、実にいい加減です。

しかし、なぜ、全国紙などはあたかも今八百長を知ったかのように、激しく批判をするのでしょうかそれよりまして、なぜ、今、警察関係者は八百長の存在を報道関係者にリークしたのでしょうか

警視庁の野球賭博事件の捜査で浮かんだメールが八百長疑惑の証拠なのですから(昨年の7月に力士の携帯電話などを押収)、昨年の夏には分かっていたことなのです。なぜ、わざわざ春場所の直前になってから、捜査機関は、リークしてマスコミを藁人形のように動かし、過剰に煽らせ、重大問題であるかのように問題視させる必要があるのでしょうか。(捜査機関側の意図は、「2011/02/05(Sat) 16:04付のrice_showerさんのコメント」を参照。

また、なぜ、国会開会後、無知無能な菅政権が立ち往生している時期に、わざわざ、市民の目を逸らすような「馬鹿馬鹿しい情報」を流して、菅直人一派の延命を図るようなことをするのでしょうか。今、国会では、全国民に影響する問題を処理することが求められているのにも関わらず、相撲の八百長問題を取り上げ糾弾するような馬鹿な閣僚ばかりなのです。(それを大きく取り上げる朝日新聞などの全国紙は、当然ながら、「菅直人一派の延命」を画策する意図があるわけです。)

私たち市民は、相変わらずの捜査情報リークに基づいた「八百長疑惑報道」や「ウソ記事」に惑わされることなく、捜査関係者の意図や、国民の目を逸らそうとしている菅直人一派の言動に、厳しい目を向けるべきなのです。

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【2011/02/06 17:07】 | 諸法
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