FC2ブログ
主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

民主党の小沢一郎元代表が政治資金規正法違反の罪で平成23年1月31日、強制起訴されました。東京地検特捜部が2度にわたって不起訴(嫌疑不十分)としたのを受け、検察審査会(検審)が同じく2度とも「起訴相当」と議決したことに基づく起訴です。(2月7日、民主党の小沢元代表の政治資金を巡る事件で起訴された石川知裕衆議院議員ら元秘書3人の初公判が開かれ、石川議員ら3人はいずれも無罪を主張しています。)

この強制起訴を巡る報道について、ジャーナリストによる論説を2つ紹介します。



1.毎日新聞平成23年2月7日(月)付朝刊11面「メディア時評――横田 由美子・ルポライター」

独自色を前面に出すべきだ

 1月31日、小沢一郎民主党元代表が強制起訴された。改正検察審査会法の施行後、政治家が市民の判断で起訴された初めてのケースだ。今後の政局を占うという意味でも、注目度の高いニュースであることには違いはない。

 だが、翌日の新聞各紙の報道は、予想された域を出ず新味に乏しかった。各紙、延々と類似の政局報道が続く。社説にしても、一般読者からすると似たような印象をぬぐえない記事ばかりが並ぶ。

 朝日は「市民の判断に意義がある」と司法改革の試みを論じつつ、冷静に公判を見つめようと言いながら、「法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題」とし、暗に辞職を迫った。その点、産経は直接的でわかりやすい。「やはり議員辞職しかない」と断言。しかし、検察審の「強制起訴」に対する意見は、それこそ前例がないだけに、判断が分かれている。裁判所の判断が出る前に辞職を迫るのは拙速だ。もちろん小沢氏側が「説明を尽くしている」と主張しようとも、多くの国民が説明責任を果たしていないと感じていることは各種調査でも明確だ。読売、日経、毎日の見出しに「けじめ」という言葉が使われているのはそのためだろう。読売は検察審の意味づけよりも、法廷に立つこと自体に政治家の道義的責任が問われるとする。日経は、検察審が重視した証拠の信ぴょう性にこそ疑問符をつけたが、読売同様に小沢氏に処分を下せない党の姿勢を批判。毎日は、国政を混乱させた「けじめ」として最低限の離党をすべしという意見だ。

 いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった。

 小沢氏の「政治とカネ」をめぐる一連の報道では、新聞やテレビなどのいわゆる「既存の大手メディア」とネットの世界では、論調や意見に大きな隔たりがある。ネットでは小沢氏を支持する意見が圧倒的だ。彼らのコメントからは、大新聞に代表される既存メディアや検察審に対する不信が頂点に達した感がある。

 新聞之読者離れが課題になって久しい。読者を再度ひきつけるには、これまでの取材・報道姿勢を見直し、独自色をより前面に出すべきだ。メディアをとりまく情勢は刻一刻と変化している。

 1月27日、フリーランサーやネットメディアの記者が有志で自由報道協会(仮)を設立し、小沢氏の記者会見を主催した。問題は事の是非ではなく「政局ではなく政策について質問してほしい」と小沢氏が出席理由を述べたことだ。権力闘争などの政局報道は面白いが、社説同様、細部にこだわり近視眼的になってはいなかったか。そこに既存メディアが変わるためのひとつの答えがあるように思う。」




2.毎日新聞 2011年2月7日(月) 東京朝刊 11面「鳥越俊太郎 ニュースの匠」

ニュースの匠:私情が一番コワい=鳥越俊太郎

 私が小沢一郎氏を当コラムで取り上げると、いわゆるジャーナリストと称する方々が次々と私の実名をあげて批判を展開する。よほど痛いところを突いてしまったのかもしれない。朝日社説子しかり。今回は私の大先輩、岩見隆夫氏(「サンデー毎日」1月30日号「サンデー時評」)です。

 私もそのコラムの見出しにならって「岩見隆夫さんは間違っている」というタイトルで反論してみます。岩見さんの論点は「『不起訴=虚構』はとんでもない短絡」という批判です。その論拠として検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったことを挙げる。しかし、内部に何があろうと<不起訴>という現実が法と証拠に基づく司法の最終結論であり、結論までのプロセスでいろいろ議論があったらしいという推論で小沢氏を黒く見せようとする立論は、私の恐れるファシズムへの道であります。

 岩見氏は戦争の体験をどう総括されているのか。<アカ>という言葉ですべての戦争反対論者を葬り去り、国民を戦争賛美者に駆り立てていった苦い経験。私たちメディアで働く者は、分かりやすい言葉で国民を雪だるまが坂道を転がり落ちるような状態にしてしまわないように心すべきである。私はいま、「政治とカネ」の言葉が国民を思考停止状態に陥らせていると判断するのであえて「言葉のファシズム」という表現を取らせていただいたのです。

 岩見さんは、鳥越の主張は「検察不信」が小沢擁護に直結しているという。私はそんな感情論からスタートしているのではない。「検察の現実」からスタートしているのです。

 あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。

【関連リンク】
<牧 太郎・二代目・日本魁新聞社BLOG>大先輩・岩見隆夫VS鳥越俊太郎
http://www.maki-taro.net/index.cgi?e=1396


【関連記事】
<岩見隆夫氏のコラム>サンデー時評:鳥越俊太郎さんは間違っている(サンデー毎日 2011年1月30日号掲載)
<議論の元になったコラム>ニュースの匠:「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎(1月10日掲載)
<関連コラム>木語:「肉食」「草食」の共通点=金子秀敏

毎日新聞 2011年2月7日 東京朝刊」




3.民主党の小沢元代表の政治資金に関する事件報道については、無罪推定の原則(憲法31条)を無視した報道の数々には、怒りを覚えます。やっと真っ当な論説がジャーナリストの側から出たようです。


(1) ルポライターの横田由美子さんは、小沢氏報道を巡る大手メディアすべてに批判をしています。

 「各紙、延々と類似の政局報道が続く。社説にしても、一般読者からすると似たような印象をぬぐえない記事ばかりが並ぶ。
 朝日は「市民の判断に意義がある」と司法改革の試みを論じつつ、冷静に公判を見つめようと言いながら、「法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題」とし、暗に辞職を迫った。その点、産経は直接的でわかりやすい。「やはり議員辞職しかない」と断言。しかし、検察審の「強制起訴」に対する意見は、それこそ前例がないだけに、判断が分かれている。裁判所の判断が出る前に辞職を迫るのは拙速だ。(中略)
 いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった。」


要するに、大手メディアは、「刑事裁判では無罪推定の原則の大原則がありそれを遵守しなければならず、さらに検察審の『強制起訴』に対する疑問点があるにも関わらず、『道義的責任』や『けじめ』という道徳観念を強調して、議員辞職という法的な効果を強要するのは、おかしいのではないか」、「いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった」と。これは真っ当な論説です。


 イ:私たちは誰であれ、「犯罪者」だと疑われた場合、その犯行が客観的事実により証明されない限り犯罪者だとはされないという人権が保障されています。だからこそ、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有」し(憲法37条1項)、さらに、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(38条1項)ことになっています。

つまり、これが「無罪の推定」の原則というものの中身です。

この無罪推定の原則からすれば、小沢氏への嫌疑を立証する責任は検察当局の側にあります。これが憲法上の原則であるわけです(「『無罪の推定』の原則」(小林節・慶応大学教授の『一刀両断』・大阪日日新聞平成22年1月26日付)参照)。ですから、被告人である小沢氏側が疑惑を解明する責任はないことはもちろん、小沢氏を有罪視することはしてはいけないのです。

それなのに、大手新聞メディアは、「道徳観」を持ち出して、事実上、無罪推定の原則を奪うような報道をするのですから、憤りを感じざるをえません。無罪推定原則に違反する「有罪視報道」は、「止める、止める」と言いながら、いつも珍妙な理屈を持ち出して、結局は、有罪紙報道を繰り広げるのが大手メディアです。憲法を蔑ろにする大手メディアには、非常に不信感を抱きます。


 ロ:しかも、今回の検察審査会による強制起訴は、検察官による起訴と異なる意味で起訴したことが明らかです。小沢氏を強制起訴と決定した起訴議決では次のように記しています。
 

「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思つて起訴しないのは不当であり、国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものである。そして、嫌疑不十分として検察官が起訴を躊躇した場合に、いわば国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる。」


最高裁判例(最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367頁)は、長年刑事裁判での事実認定を行ってきたという、検察官というプロによって、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」がないと違法であり、(憲法17条に基づく)国家賠償法による損害賠償が生じるとしています(桜井=橋本「行政法」(第2版)(弘文堂、平成21年)380頁以下、「有罪の見込みがない起訴を認めてよいのか?~検察審査会の強制起訴を巡って」(2010/09/07 [Tue] 20:43:09))。

そうだとすれば、今回の検察審査会による強制起訴は、有罪の見込みがないのに起訴するものですから、この強制起訴は、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」があるとはいえず、当然に違法な起訴と判断され、国家賠償責任が生じることは確実です。

このように、国家賠償責任が発生することが確実といえる違法な起訴は、憲法17条に反する違憲の起訴であって、明らかに検察官による起訴とは異質な起訴です。(本来は、検察審査会による起訴も、起訴される側の不利益には何等変わりがないのだから、有罪の見込みがある場合に起訴すべきなのですが、間違って運用されていること自体が問題です。)

今回の検察審査会による強制起訴は、検察官による起訴と異なる意味で起訴したことが明らかなのですから、この起訴により、小沢氏に対する道徳的責任を求めること自体に、違和感を感じます。



(2) ジャーナリストの鳥越俊太郎さんの論説は、岩見隆夫氏から受けた、根拠の乏しい批判への反論という形で、大手メディアへの批判を行っています。

「あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。」


要するに、小沢氏を巡る事件については、「法と証拠に基づいて論ずるべきであり、法と証拠に基づけば無罪になる。“長年の確信”といった法とは別個の感情論で有罪無罪を決するべきではない。」というものです。これも真っ当な論説です。


 イ:岩見氏の論説を見ていると、全く法律論が分かっていないと感じます。岩見さんは、「検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったこと」を挙げて、小沢氏の有罪は確実であるように述べてしまいます。

法律論や証拠判断には、すべての人が同じ判断になるわけではなく、異説というものが必ずあります。最高裁判例があったとしても、その最高裁判例がどんなに適切なものであっても反対する学説はあるわけで、最高裁判決が出る場合にも反対意見はあるわけです。

検察庁の内部において、起訴するかどうか議論になることはもちろん当たり前のことであり、小沢氏に対して1年にもわたり執拗に捜査をし続けた東京地検特捜部としては、メンツを守るために――戦争前の帝国陸軍と同じですが――、起訴したいという検事がいたはずです。

しかし、前述した最高裁判例(最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367頁)がある以上、メンツを守るだけのための起訴は不可能なのですから、結局は、検察庁としては、有罪となる証拠がないとする判断が多数を占め、不起訴と判断したわけです。

だから、私たちが尊重すべきは、多数を占めた不起訴となった方であって、「検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったこと」は単なる少数派の意見にすぎないとして、重視するべきではないのです。

さらに言えば、日本において99%の有罪率となっているのは、無罪となるような事件は起訴しないという点で、検察庁の方で適切な判断をしている点にも理由があります。そうであれば、その検察庁において、有罪となる証拠がないという判断をしたということは、有罪は困難であるという合理的な推認ができるわけです。

このように、岩見さんは、一般的な法律的な判断と異なる独自の意見により、法律論について判断をしているのですから、到底、受け入れることはできません。


 ロ:正直な話、小沢氏についての政治資金規正法違反の罪については、真っ当な法律家であれば、有罪となるのは極めて困難であると判断しているのです。1つ挙げておきます。

 「小沢氏が問われてるのは政治資金規正法違反の虚偽記載ですが、まあ、報道を見る限り、有罪にするのは限りなく難しいでしょう。政治資金管理団体の代表者である小沢氏は、秘書の会計責任者の記載操作に深く関与していない限り、無罪。」(日大名誉教授・板倉宏=刑法)(日刊ゲンダイ平成23年2月3日(2日発行)


なぜ、岩見さんや全国紙は、ほとんどすべてといえるほどの法律家(検察官を除く)の意見を無視して、小沢氏を有罪視する報道を繰り広げるのでしょうか。例えるならば、「専門医が、『この患者はこの薬・手術により確実に命が助かる』と判断しているのに、素人がしゃしゃりでてきて、『この患者はもうすぐ死ぬんだ!!!』と喚き散らしている」というようなものです。まったく不思議でなりません。

大手メディアは、無罪となることが濃厚な小沢氏に対して、無罪が確定したら、どのように責任を取るのでしょうか。単なる謝罪では済まないことは確実です。毎日新聞などは、廃業に追い込まれるほど、販売数が落ち込む可能性が十分にあります。




4.本来なら、誰が起訴されようとも、証拠がないままでの起訴なのですから、冤罪であるとして起訴自体に批判を行うのが、メディアとしての役割だったはずです。ところが、いまや全国紙は、無知無能な菅直人一派の擁護者となり、社説はいつも「共同社説」のようです。

2008年3月。ニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」が終わりました。
自らの名を冠した番組の最後の放送で、アンカーであった筑紫哲也さんは、自らが目指したニュースのあるべき姿をこう語りました。

「力の強い者、権力に対する監視の役を果たし」
「ひとつの方向に流れやすいこの国の中で、少数派であることを怖れず」
「多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由の気風を保つ」


検察に対する監視、起訴という重大な人権侵害に対する監視、政権公約を無視し続ける菅直人政権に対する監視・批判を止めてしまった大手メディアに属する社員は、筑紫哲也さんの言葉なんて、誰もが忘れてしまったようです。

スポンサーサイト


追記を閉じる▲
3.民主党の小沢元代表の政治資金に関する事件報道については、無罪推定の原則(憲法31条)を無視した報道の数々には、怒りを覚えます。やっと真っ当な論説がジャーナリストの側から出たようです。


(1) ルポライターの横田由美子さんは、小沢氏報道を巡る大手メディアすべてに批判をしています。

 「各紙、延々と類似の政局報道が続く。社説にしても、一般読者からすると似たような印象をぬぐえない記事ばかりが並ぶ。
 朝日は「市民の判断に意義がある」と司法改革の試みを論じつつ、冷静に公判を見つめようと言いながら、「法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題」とし、暗に辞職を迫った。その点、産経は直接的でわかりやすい。「やはり議員辞職しかない」と断言。しかし、検察審の「強制起訴」に対する意見は、それこそ前例がないだけに、判断が分かれている。裁判所の判断が出る前に辞職を迫るのは拙速だ。(中略)
 いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった。」


要するに、大手メディアは、「刑事裁判では無罪推定の原則の大原則がありそれを遵守しなければならず、さらに検察審の『強制起訴』に対する疑問点があるにも関わらず、『道義的責任』や『けじめ』という道徳観念を強調して、議員辞職という法的な効果を強要するのは、おかしいのではないか」、「いずれも、押しつけがましい印象を受け、道徳の教科書でも読んでいる気になった」と。これは真っ当な論説です。


 イ:私たちは誰であれ、「犯罪者」だと疑われた場合、その犯行が客観的事実により証明されない限り犯罪者だとはされないという人権が保障されています。だからこそ、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有」し(憲法37条1項)、さらに、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(38条1項)ことになっています。

つまり、これが「無罪の推定」の原則というものの中身です。

この無罪推定の原則からすれば、小沢氏への嫌疑を立証する責任は検察当局の側にあります。これが憲法上の原則であるわけです(「『無罪の推定』の原則」(小林節・慶応大学教授の『一刀両断』・大阪日日新聞平成22年1月26日付)参照)。ですから、被告人である小沢氏側が疑惑を解明する責任はないことはもちろん、小沢氏を有罪視することはしてはいけないのです。

それなのに、大手新聞メディアは、「道徳観」を持ち出して、事実上、無罪推定の原則を奪うような報道をするのですから、憤りを感じざるをえません。無罪推定原則に違反する「有罪視報道」は、「止める、止める」と言いながら、いつも珍妙な理屈を持ち出して、結局は、有罪紙報道を繰り広げるのが大手メディアです。憲法を蔑ろにする大手メディアには、非常に不信感を抱きます。


 ロ:しかも、今回の検察審査会による強制起訴は、検察官による起訴と異なる意味で起訴したことが明らかです。小沢氏を強制起訴と決定した起訴議決では次のように記しています。
 

「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思つて起訴しないのは不当であり、国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものである。そして、嫌疑不十分として検察官が起訴を躊躇した場合に、いわば国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる。」


最高裁判例(最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367頁)は、長年刑事裁判での事実認定を行ってきたという、検察官というプロによって、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」がないと違法であり、(憲法17条に基づく)国家賠償法による損害賠償が生じるとしています(桜井=橋本「行政法」(第2版)(弘文堂、平成21年)380頁以下、「有罪の見込みがない起訴を認めてよいのか?~検察審査会の強制起訴を巡って」(2010/09/07 [Tue] 20:43:09))。

そうだとすれば、今回の検察審査会による強制起訴は、有罪の見込みがないのに起訴するものですから、この強制起訴は、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」があるとはいえず、当然に違法な起訴と判断され、国家賠償責任が生じることは確実です。

このように、国家賠償責任が発生することが確実といえる違法な起訴は、憲法17条に反する違憲の起訴であって、明らかに検察官による起訴とは異質な起訴です。(本来は、検察審査会による起訴も、起訴される側の不利益には何等変わりがないのだから、有罪の見込みがある場合に起訴すべきなのですが、間違って運用されていること自体が問題です。)

今回の検察審査会による強制起訴は、検察官による起訴と異なる意味で起訴したことが明らかなのですから、この起訴により、小沢氏に対する道徳的責任を求めること自体に、違和感を感じます。



(2) ジャーナリストの鳥越俊太郎さんの論説は、岩見隆夫氏から受けた、根拠の乏しい批判への反論という形で、大手メディアへの批判を行っています。

「あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。」


要するに、小沢氏を巡る事件については、「法と証拠に基づいて論ずるべきであり、法と証拠に基づけば無罪になる。“長年の確信”といった法とは別個の感情論で有罪無罪を決するべきではない。」というものです。これも真っ当な論説です。


 イ:岩見氏の論説を見ていると、全く法律論が分かっていないと感じます。岩見さんは、「検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったこと」を挙げて、小沢氏の有罪は確実であるように述べてしまいます。

法律論や証拠判断には、すべての人が同じ判断になるわけではなく、異説というものが必ずあります。最高裁判例があったとしても、その最高裁判例がどんなに適切なものであっても反対する学説はあるわけで、最高裁判決が出る場合にも反対意見はあるわけです。

検察庁の内部において、起訴するかどうか議論になることはもちろん当たり前のことであり、小沢氏に対して1年にもわたり執拗に捜査をし続けた東京地検特捜部としては、メンツを守るために――戦争前の帝国陸軍と同じですが――、起訴したいという検事がいたはずです。

しかし、前述した最高裁判例(最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367頁)がある以上、メンツを守るだけのための起訴は不可能なのですから、結局は、検察庁としては、有罪となる証拠がないとする判断が多数を占め、不起訴と判断したわけです。

だから、私たちが尊重すべきは、多数を占めた不起訴となった方であって、「検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったこと」は単なる少数派の意見にすぎないとして、重視するべきではないのです。

さらに言えば、日本において99%の有罪率となっているのは、無罪となるような事件は起訴しないという点で、検察庁の方で適切な判断をしている点にも理由があります。そうであれば、その検察庁において、有罪となる証拠がないという判断をしたということは、有罪は困難であるという合理的な推認ができるわけです。

このように、岩見さんは、一般的な法律的な判断と異なる独自の意見により、法律論について判断をしているのですから、到底、受け入れることはできません。


 ロ:正直な話、小沢氏についての政治資金規正法違反の罪については、真っ当な法律家であれば、有罪となるのは極めて困難であると判断しているのです。1つ挙げておきます。

 「小沢氏が問われてるのは政治資金規正法違反の虚偽記載ですが、まあ、報道を見る限り、有罪にするのは限りなく難しいでしょう。政治資金管理団体の代表者である小沢氏は、秘書の会計責任者の記載操作に深く関与していない限り、無罪。」(日大名誉教授・板倉宏=刑法)(日刊ゲンダイ平成23年2月3日(2日発行)


なぜ、岩見さんや全国紙は、ほとんどすべてといえるほどの法律家(検察官を除く)の意見を無視して、小沢氏を有罪視する報道を繰り広げるのでしょうか。例えるならば、「専門医が、『この患者はこの薬・手術により確実に命が助かる』と判断しているのに、素人がしゃしゃりでてきて、『この患者はもうすぐ死ぬんだ!!!』と喚き散らしている」というようなものです。まったく不思議でなりません。

大手メディアは、無罪となることが濃厚な小沢氏に対して、無罪が確定したら、どのように責任を取るのでしょうか。単なる謝罪では済まないことは確実です。毎日新聞などは、廃業に追い込まれるほど、販売数が落ち込む可能性が十分にあります。




4.本来なら、誰が起訴されようとも、証拠がないままでの起訴なのですから、冤罪であるとして起訴自体に批判を行うのが、メディアとしての役割だったはずです。ところが、いまや全国紙は、無知無能な菅直人一派の擁護者となり、社説はいつも「共同社説」のようです。

2008年3月。ニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」が終わりました。
自らの名を冠した番組の最後の放送で、アンカーであった筑紫哲也さんは、自らが目指したニュースのあるべき姿をこう語りました。

「力の強い者、権力に対する監視の役を果たし」
「ひとつの方向に流れやすいこの国の中で、少数派であることを怖れず」
「多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由の気風を保つ」


検察に対する監視、起訴という重大な人権侵害に対する監視、政権公約を無視し続ける菅直人政権に対する監視・批判を止めてしまった大手メディアに属する社員は、筑紫哲也さんの言葉なんて、誰もが忘れてしまったようです。

スポンサーサイト

FC2blog テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

【2011/02/08 01:15】 | 諸法
トラックバック(1) |


machcat
鳥越氏と横田氏のコラムは正に正論だったと思います。 それに反する岩見氏のコラムは唖然とさせられました。 これが日本のジャーナリストなのか・・って

いつから疑わしきは罰するが近代法の原則になったんでしょうかね。 彼らは戦前の日本の憲兵でも復活させたいんでしょうか・・

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
鳥越氏と横田氏のコラムは正に正論だったと思います。 それに反する岩見氏のコラムは唖然とさせられました。 これが日本のジャーナリストなのか・・って

いつから疑わしきは罰するが近代法の原則になったんでしょうかね。 彼らは戦前の日本の憲兵でも復活させたいんでしょうか・・
2011/02/09(Wed) 16:38 | URL  | machcat #HfMzn2gY[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
「人気ブログ・ランキング」「ぶろぐ村・政治社会問題」の 2つのランキングに参加しています。 それぞれ、どこか1箇所のバナーを1日1回クリック して頂けると幸いです。m(__)m 最新の記事(10個)のコーナーはヨコの欄に。 *印のついた報道記事は...
2011/02/08(Tue) 02:21:41 |  日本がアブナイ!
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。